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ページタイトル:池田城

※リンクの張り過ぎでページが重くなってしまいましたので、インデックスを作成しました。こちらからめぼしい項目をご覧になられると時間の短縮になるかと思います。ご活用下さい。

<池田城の興り>
池田城がいつ頃、誰によって築かれたかのか、はっきりしたことはわかっていません。未確認の一番古い文献では1336年(建武3)平國茂軍忠状に池田城として登場していますが、今のところ1469年(文明元)には既に存在していた事と考えられています。当時としては珍しかった主郭(本丸)の周辺に弓場や馬場が設けられていたと云われます。

<言い伝えを聞くと> 
古くから池田にお住まいの方に聞いてみたところ、池田城の名残りと思われる「的場」「馬場」「弓場」などの地名が戦前頃まで使われていたり、阪急の鉄道工事の時に池田城の施設らしきものが出たなどのお話しをお聞きできました。

<城下に酒造家が存在したか>
池田では応仁年間(1467〜1469)に満願寺村から移ってきて、酒造業が始められたという伝承があります。また、この酒造に携わっていたのが荒木氏だったとの事も伝わったりしています。こういった消費物資を生産する工場を城下に持っていたという事は非常に大きな意味があったに違いありません、興味の尽きない情報です。

<戦国時代中期から後期の頃>
北部摂津地域で有力国人に成長した池田氏は次第に中央からも声がかかるようになり、時代を経るにつれてその立場は重くなっていきます。戦国時代に突入すると、富裕に借って軍事力を誇示できた池田家は灘たる戦にも参加するようになり、池田城をも攻められる激戦に何度も遭遇します。あの織田信長にも対抗して落城します。

<有力武士の城下集住>
現在のところ公的な物理的検証が行われていませんが、特に天文年間以降をみると、多くの史料に現れる域城中への有力武将(人物)の居住は、池田城においても同じような状況があったと考えられます。機械の発達していない中世であっても、社会に生きる個人には、情報の伝達と意思疎通は不可欠です。地方政治の中心である池田城下にはやはり、商人だけではなく、政治(軍事と一体化している)に関係する武士なども多く住んでいたと考えるのが自然です。

<池田城の防衛線>
池田城は要地にあったため、一度戦になると池田城を巡って攻防戦が繰り広げられました。その結果何度も落城しています。しかし、池田家が滅びる事はなく、その度に回復と返り咲きを果たします。池田城はそんな経験から、防衛に関して様々な工夫をしていたようです。この項は推定ですが、池田城を別の角度から考えます。

<池田城と鉄砲>
池田城と鉄砲の関係について、物的証拠や史料はほとんどありませんが、様々な史料を読むと、自然な流れの中で摂津池田家にもその保有と使用が推定できます。個人的な推定ではありますが、池田城発掘資料や室町時代末期の史料などを元に、少し関係を推定してみました。

<防備施設の事>
鉄砲の実戦使用で、その大きな破壊力についての対応が、各分野で進められていました。そういった流れの中で、上昇する池田家の社会的地位や経済力を背景として、城郭内の施設にも様々な変化が現れたと考えるのも不自然ではありません。新しい技術やよりよい道具や方法は、豊かな経済力に支えられながら、積極的に採り入れられた事でしょう。

<摂津守護となった頃>
1568年(永禄11)秋、足利義昭を将軍にすべく織田信長は上洛戦を展開します。その時摂津地域も席巻され池田家は降伏。しかし、室町幕府(織田家)から所領安堵を受け、そして池田家は主命(将軍義昭)を受けた多くの戦に従軍します。そんな安泰に思えた池田家に内訌が起こります。総領勝正は追放されます。間もなく、勝正は、軍勢を率いて細川藤孝と共にかつての居城である、池田城を攻める事になります。

<池田城と城主の社会的地位>
城は単に物体として存在しているわけではありません。住宅と同じように、住む人の経済力や社会的地位を敏感に反映させて存在しています。また、設備の性能向上や牛馬、道具等を保管する必要もあり、様々な要素を含んで形成されています。また、地勢を利用した立地についても、絶妙なバランスの中で位置付けがなされています。

<池田城と町の関係>
より広範囲な政所機能を持つ池田城は、市場という商業活動を側面から支え、商業活動は地域の有力者である池田氏との関係を保ち、その武力とも共存していたようです。互いに密接な関係を持つ、政治・商業・軍事力は、城という象徴に市場を形成させていました。

<荒木村重が本拠を池田から伊丹へ移した理由>
織田信長政権内の軍事政策の中で重要な任務を帯びていた荒木村重は、備前・播磨国への政治的対応、丹波国への政治・軍事対応(明智光秀を中心とする)の援護、大坂本願寺への備え、大坂湾岸などを中心とした制海任務など、様々な状況が重なり、内陸の池田から伊丹への拠点移動を余儀無くされたようです。この点について考えてみました。

<荒木村重が摂津国を支配した頃>
かつての池田家臣である荒木村重が主家を圧倒し摂津国の守護となります。そして支配地域が広がった結果、その中心を伊丹に移して池田城の軍事的な重要度は低下します。しかし、あの信長にも武将として重用された村重でしたが次第にその下を離れ、そして謀反を起こします。その頃の池田城はやはり攻守共に要地だったようです。当時、にわかに注目されていました。

<有岡城攻めの拠点、池田> 
多くの街道を通し、都市として永年機能してきた歴史もあり、また、地の利もあって織田信長は、有岡城を攻略するにあたり、摂津国池田を本営としました。当時の状況からして、池田以外にはあり得ない状況がありました。

<豊臣の世の頃>
次第に乱世も治まり、全国的に平和になりつつあった頃ですが、北部摂津はそういうわけにもいきませんでした。塩川・能勢氏の軍事衝突により、豊臣秀吉から討伐軍が差し向けられます。池田近郊での事件だけに、池田城(跡)を拠点に様々な行動が展開されます。池田輝政・高山右近・片桐且元など名だたる武将が行き来しました。

<家康の世の頃>
有名な「大坂の陣」でも池田とという地は重要な役割を果たしていました。多くの街道を交差させる池田は人や物を集める適地でした。大坂方面へ軍勢を集結させるにあたり、徳川家康からの命で、中国方面の大名を池田に集結させます。元々軍事施設である城跡もその時は当然利用されていたと考える方が自然ではないでしょうか?

<泰平の世の頃>
「大坂の陣」で勝利した徳川家から、池田は天領(藩の介在しない直轄地)の指定を受けます。常に有事に供えていた幕府にとっては、平和になったとはいえ油断はしません。池田はそれ程地の利を得た地勢でした。不思議な事に、池田城跡は江戸時代を通して家屋の建つ事の無い空き地でした。もしかすると有事の供えでしょうか?



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