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ページタイトル:池田城
※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。

<言い伝えを聞くと>
また、池田に古くからお住まいの方に聞くと、1910年(明治43)に開業した箕面有馬電車の工事の際、池田城の施設のような堀らしきものが出たとか、池田城の名残りと思われる
弓場(ユンバ)的場(マトバ)馬場(バンバ)という地名があった事を教えて頂きました。また、池田城の復元図に書かれているような道や地名が戦前まで結構残っていたとの事です。
 「堀らしきもの」という話しに連動する逸話として池田に
荒木村重の墓と伝わるところがこの線路付近に数ヶ所あります。信じられない話しですが、江戸時代に書かれた名所ガイドブック「摂津名所図会」にも記載されています。
 残念ながら、公的な調査は行われず、2009年現在はマンション建設が進んでいます。
 先程の弓場ですが、今の池田城跡公園の東側、回生病院の北側がその場所です。文字通り弓の練習場だったのでしょう。
 それから馬場は、今の池田中学北側がその場所だそうです。ここは、大阪府教育委員会でも池田城の遺構に関する発掘調査が行なわれ(場所は池田中学の北側)ましたが、宅地開発による削平のためにめぼしいものは出土しなかったとの事です。戦国時代の地層というのは結構浅いそうで、50〜70センチも掘ると到達するそうです。ちょっと話しがそれましたが、やはり馬場という事で広い場所を必要とする事からこの場所になったのでしょう。
 ちなみに、織田信長が池田に滞在中の事で「信長公記」の1579年(天正7)の記事にはこんな事が書かれています。

『四月八日、御鷹野へ御出で、古池田、東の野にて御狂(クルイ)これあり。御馬廻・御小性衆には、馬を乗させられ、御弓衆、御そばにをかせられ、二手に分けて、馬乗衆、御責子(セコ)衆の中へ懸け入り候はんと、馬を懸けられ、信長公、御せこ衆と御一所に御座候て、塞がせられ、御狂ありて、御気を晴らせられ、其れより直ちに御鷹野なり。

四月廿六日、古池田まへ、信長御出でなされ、御狂あり。以前の如く、御馬廻・御小性衆、近衛殿・細川右京太夫殿、是れも、御馬をめされ、二手に分れて、御足軽御懸け引き、面白く遊ばし、御気を晴らせられ候。』

※「古池田まへ」とはどこかわかりませんが、多分最初と同じ場所だったのではないかと思われます。
 前後の記事から推察しますとこの年はそれまでの苛酷な状況から開放されて、比較的平穏な年だった(難題が解決しつつあった)ので、気持ちにも余裕ができての事かもしれません。どちらもその言い伝えに思いを馳せるに足る記録すね。


 これを読むと現在の池田中学北側が昔は馬場だったという言い伝えとの関連性を感じます。これはあくまでも個人的な推測ですが.....。

 話しが脱線してしまいましたが、最後は的場についてです。池田城から直線距離で西北西へ300メートル程のところで、現在も小さな道で囲まれている地域があります。
 この辺り一帯が的場と言われていた場所です。ここは地形的に勾配があるのですが、的場とはどんな風に使われていたのでしょうか?いずれにしても軍事施設があったと思われる名残りが地名になっていたのでしょう。弓や鉄砲の調練を行なっていたのでしょうか?
 今のところ推察の域(といっても無視できない程の)ですが、これらの話しがもし本当だとすると、池田城の規模は現在確認されている南北約550メート、東西約330メートルという規模を遥かに上回る相当な規模の城だった事になります。


 更に、城から少し離れた町場域にも言い伝えがあります。
 池田城は、早い段階からの惣構え(町場全体を囲む防御設備)の想定がされており、これに関すると思われる伝承がいくつかの点で一致します。
 「江源武鑑」という近江国六角氏についての伝聞資料があり、この中に永禄11年秋の池田城合戦についての記述があります。この時、足利義昭を奉じて織田信長が上洛戦を展開しますが、この時の最後の組織的抗戦が、三好方に属する池田衆によるものでした。
 「江源武鑑」によると、この時、池田城の「南ノ口」で交戦が行われたとあります。
 現在の池田市大和町にこれに関係すると思われる伝承があります。今はその形跡が無いのですが、寺があったとされる場所があり、それが「南ノ口」に近い場所にあります。また、同寺は戦国時代に焼かれて、その後は再興されずに忘れ去られているようです。
 また、その辺りでは、現在も多くの五輪塔が、お地蔵さんとして祀られており、寺があった事を想像させます。この寺は、池田城主筋を弔う菩提寺である大広寺とは別に、武士を弔う寺だったと伝わっています。これらの事から、「南ノ口」とは、現在の大和町から菅原町あたりにかけて防御施設があった事を窺わせる手掛かりになり得ると考えられます。

 他方、軍事的に、現在想定されている城域程度では守るにかなり難しいらしく、城としての性格を考えるなら想定される枠組みを現在よりも広げて考えるべきではないかという指摘もあります。
 現にそういった想定がなされた大阪府教育委員会の瀬川健氏の報告書などもあります。



写真:池田城の的場跡

的場跡
<マップA-ア>

写真:池田城の弓場跡

弓場跡
<マップB-ア>

写真:池田城の馬場跡

馬場跡
<マップB-3>

画像:推定復元図

池田城推定復原図

写真:池田市にある九頭竜神社

九頭竜神社

写真:伊丹(有岡)城

伊丹城

写真:南ノ口跡?

池田城南ノ口跡?

写真:大広寺

大広寺

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