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ページタイトル:池田城

※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。

<池田城と城主の社会的地位>
「城」という物理的な物体について考慮される時、文献による推察と発掘による一致を以って、証明されていくのが通常です。この連続の中で、全容解明が行われつつある城跡もあります。これは、発掘を徹底して行われている場合のみ起こる摂理です。しかし、多くの場合不完全なまま、推測・伝承状態をいたずらに長期化させてしまい、貴重な遺物の破壊を招いて、そのまま真相はうやむやになっています。平成7年頃以降は、特に顕著なように思います。そして誰も問題視しません。
 そういう中にあって、城の広さや規模の変化が何のためにおきているのか、池田城の場合もわからないままです。
 近年、発掘報告書の発行されない試掘・発掘が公然と行われていますが、その中で、根拠の乏しい断定が行われています。
 発掘の調査報告書が刊行されていませんので、私たち市民は確かめようがないのですが、わずかながらの関連資料や関係者に聞いたりして調べると、やはりその結論に矛盾を感じるところが多数(市史の池田城に関する記述と現地説明会の資料の結論ですら食い違う)あります。文化財は、市民と社会のものです。文化財(今は特に埋蔵文化財)に対する理念の、この歪曲した風潮は、地域を越えて、国家レベルで大変憂慮すべき事態だと感じています。
 もはや文化財の意味がわからなくなってきていると感じます。大袈裟かもしれませんが、先進国としての科学力の低下が、各地で始まっているともいえるのかもしれません。

 さて、個人的に池田城と城主の関係を考えてみたいと思います。かく言う私も、在野の研究者ですので、未熟さによる論の甘さは随所にあると思いますが、その時はご指摘下さい。
 新修池田市史などによると、「中書家久公御上京日記」(「神道体系」参詣記)を根拠として、天正3年4月15日の時点では、池田城は既に「廃城」となっていたとの見解が付されています。「廃城」の通説を組み立てる背景は、この1つの史料によっています。
 ちなみに、市史では一応いくつかの資料を並行的に検討していますが、結局「中書家久公御上京日記」に帰結し、その理由は、その当時に書かれた記録だから事実としての信憑性が高いとしています。
 しかし、これも市史に若干触れられていますが、「城」という設備的なものにだけにこだわるのではなく、城地の重要性という意味では、連続した中心を見失わないようにしなければいけません。どの角度から物事を見るのかにもよりますが、天正3年から同6年までの期間、論理に空白作るのではなく、直接的史料ばかりを見ずに演繹的に捉える事で、そこに当然収まるべき事実が見えるように努力はできると思います。
 「中書家久公御上京日記」(「神道体系」参詣記)による、「(前略)亦行て右方に有岡といへる城有り、本は伊丹といへる城也。亦左方に池田といへる城有、今はわりて捨てられ候。(後略)」との記述は、あくまで、土地感のない、個人の感覚による記述であるため、注意深く受けとめる必要があります。また、その当時の史料の注意点としては、利害を強く帯びている場合があり、見解が一方的である事が多いのです。そのため、対極側にある史料も同時に読む必要があります。
 さて、その後の荒木村重の社会的立場やその上位である織田信長の動きを見ると、決して池田城を軽い扱いとはしていない事に気付かされます。むしろ、重要な位置づけであり、実際に「伊丹・池田は一対の城」と記述する伝承資料もあったりします。
 村重が摂津国の本拠(守護所)を伊丹に移した理由については「荒木村重が本拠を池田から伊丹へ移した理由」をご覧いただくとしまして、ざっと流れをご紹介します。
 1573(元亀4・天正元)年3月、摂津池田家は更に内訌状態となり、村重が織田信長を頼ります。織田信長政権に優遇された村重は、その強力な後ろ盾を以って、摂津国内の統一を果たします。
 1574(天正2)年11月頃に伊丹城を落としたようです。そして、高槻有馬(三田)・能勢など摂津国内の主要地域を制圧すると同時に、播磨・備前国への対応や明智光秀の丹波・丹後国侵攻の支援を行っています。
 また、この年に大規模な大坂本願寺への攻撃と包囲も行っています。池田は、これらの地域へ対応するための拠点として、機能していた事は十分に考えられることです。今もそうですが、池田には「東西南北」四方へ通す重要な街道を何本も有しています。この池田の立地と時代性は、「空き地」のように、何も機能しない空間にしておかない条件であるといえます。
 戦争遂行の必須条件としてもそうですが、領国支配を行う上でも「要地」の確保は、重要な課題です。実際に1576(天正4)年1月、丹波の大名波多野秀治の攻撃を受けて敗走した明智光秀は、丹波から播磨を経て、池田へ入り、更に京都へ戻っています。その後も光秀は苦労して丹波を天正7年にやっと制圧しますが、幾度となく池田を利用しながら任務を果たしています。
 これらの動きを見ると、伝承資料にある「池田と伊丹は一対の城」という記述も意味を持ってくるように思います。この事から、天正3年4月の廃城説は、城の有無に注目するのではなく、その事から、池田城の役割がどのように変わったかを注目すべきだと思います。「廃城」は、その時点の状態や感覚を示す物理的な認知ととらえた方がいいように思います。
 また、「穴織宮拾要記 末」の記述に見られる、「(前略)一、今ノ本養寺屋敷ハ池田ノ城伊丹へ引きさるさき家老池田民部屋敷也、(後略)」との記述は、1575(天正3)年4月頃までに伊丹城が荒木村重の本拠地として機能する前の様子として伝えられたもののようですが、前記の状況を考慮すると番所(管理人)的な役割りの人が池田に残っていた(あった)と考える事もできるかもしれません。
 池田城が主たる城であった頃の伝承・推定として、今の池田城跡公園のすぐ東側からその南にかけて侍屋敷だったとするものがあります。実際に天文・永禄・元亀時代の史料をみると、重要家臣の城下(内)集住は一般的に行われており、先進地域内の池田においても、その傾向にあったと考える方が自然だと思われます。それに対して「穴織宮拾要記 末」の記述では、活動期の城の様子としては、家老屋敷の配置が少し不自然なように思われます。
 この事から考えると、双方は途切れた別の時代のものではなく、同時進行上での地域の断面かもしれません。
 他方、池田城の最盛期の城域をどのように捉えるかを考えてみると、池田筑後守勝正は、織田信長に奉じられた足利義昭政権の中で、摂津守護職を認められます。この時の足利義昭は、実効的な支配地と権限のほとんどない、非常に脆弱な幕府(将軍)でした。その政権を維持していくにあたり、協力者の城を軍事拠点としても強固にする必要がありました。そんな背景の中で、筑後守勝正は、摂津守護職を任され、その本拠である池田城は、守護所となったわけです。
 また、この頃池田家は、摂津国内最大の国人でしたから、規模・質などにおいて、他の城に比べると優れていたと考えられます。
 政権を樹立した側に抵抗しながら、被害を負わせたのに、逆に取り立てられるという異例は、それなりの理由があったからだと考えられます。
 同じく、河内国の守護所であった高屋城高野街道を城内に通しており、その理由と築造時期は、特定されていませんが、池田城最盛期の城域と同じような構成が見られます。
 これは個人的な考えですが、中小の城は、公的な道、いわゆる「街道」から少し外れた所に城を構えてあるのが一般的な形態のようです。しかし、街道を城内に取り込んだ構造を持つ城というのは、国の血管ともいえる街道を有事に封鎖する必要がある地位と役目を持つ「守護職(守護所)」であればこそ、必要だったものではないかと思います。
 故に、池田城内に能勢街道を取り込んだ構造(最盛期の城域)の意味は、池田勝正が、摂津守護職に就いた時以降に、その理由(起源)があるのではないかと考えたりしています。
 そういう構造であるが故に1570(元亀元)年6月以降から翌年にかけて、池田勝正自身が幕府・織田信長勢を率いて池田城を改めても落ちず、約4年間、三好三人衆方の拠点として機能し続けられたのかもしれません。
 私は、城というのは、住宅と同じで、人と密接に関連するものであり、その主人たる城主の社会的活動も見ながら考える必要があると思います。池田城の場合もやはりそうで、池田家当主「筑後守」を名乗る人物の活動を分析する事は、城の変遷を考える時には、絶対条件であると思います。そして同時に、史料に乏しいとする、地方の城であれば尚の事、緻密な発掘調査の事実によって、異物の変遷を客観的に見極め、手がかりを積み上げる必要があります。その例の最高峰はやはり、国の事業ともなっている安土城くらいのものかもしれません。
 完璧な環境を望んでも仕方のない事ですが、池田城は、畿内の歴史の中で、非常に特異で興味深い経緯を辿っているから、公的な取り組みを継続的に行う事ができれば、全国的にも珍しい結果が出るだろうと確信しています。



イメージ:池田城跡発掘調査報告

発掘調査報告書

写真:池田城跡

池田城跡公園
<マップB-3>

画像:池田城跡推定復元図

池田城推定復原図

写真:伝家老屋敷跡

旧大西垣内
<マップA-ア>

写真:伝家老屋敷跡

弘誓寺
<マップA-ア>

写真:伝家老屋敷跡

甲?伊賀家老屋敷跡
<マップB-ア>

写真:池田市本養寺

本養寺
<マップA-ア>

イメージ:池田筑後守勝正

池田筑後守勝正

写真:豊中市刀根山

刀根山

画像:荒木村重

荒木村重像

画像:織田信長画

織田信長像

写真:摂津原田城跡

原田城跡

写真:大坂本願寺跡

大坂本願寺跡

写真:伊丹(有岡)城跡

有岡城

写真:旧西国街道

旧西国街道

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