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ページタイトル:池田城

※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。

<池田城と鉄砲>
1558年(永禄元)9月、京都を中心とした畿内の実力者だった三好長慶が洛中に下した禁制の条項に「鉄砲の無断放射」を禁ずるものがあります。この頃には、畿内各地、摂津での交戦には鉄砲が日常的に使われていたのだろうと思われます。
 その流れの中では、三好長慶方の有力な摂津国人である池田家も相当数の鉄砲保有量が想定されます。
 記録としては確かなものが今の所あまり存在していませんが、当時の池田家と家格(公的・実質的な社会的地位など)や経済力から考えれば、少なくない数の鉄砲を揃える事ができたと考えられます。
 少し時代は下って、池田勝正が総領(当主)の頃には、鉄砲と池田家の記録がはっきりと現れます。
 1567年(永禄10)4月、勝正は三好三人衆方として、松永久秀を追うべく大和へ軍勢とともに侵入します。勝正勢は、大和侵入後から久秀方と鉄砲による交戦を行っています。
 この時、勝正など池田衆を含む三好三人衆勢は、一万余の軍勢で久秀居城の大和多聞城を攻撃しています。この一連の動き(戦闘)では、終始鉄砲が使用されていたようです。
 さて、摂津池田城と鉄砲の関係ですが、発掘調査など公の資料からは、その関係を辿る事ができていません。池田家と鉄砲についての問題は、個人的推定によるものがほとんどですが、公的資料からは、僅かに城と鉄砲の関係を伺う事ができます。
 「鉄砲玉」が池田城跡主郭部分から発掘されている事と、城の遺構から「横矢掛かり」の構造が数カ所で検出されています。もちろんこれだけでは、鉄砲と城の事を関連づけるに足りません。
 ちょっと視点を変えて、歴史史料を見ていくと池田城の歴史の中でも特に、天文・永禄年間に多数の敵に池田城を攻められていながら、何度も落城を逃れている点。
 更に、織田信長による新体制の幕府が樹立された後にも池田家は大動員させられている点についても、併せて推定してみると、当時の状況下において池田家は(多数の)鉄砲の保有に加えて、組織的運用に長けていた面もあったのではないかと考えています。
 時間は前後しますが、1568年(永禄11)10月に信長が摂津池田城を攻める事になったのは、鉄砲の保有量とそれまでの経験に自信を持っていた惣領勝正など池田衆の自負が、歴史的な「摂津池田合戦」となったのではないかと考えています。結果として、信長は少なからず被害を受け、この時の上洛では、最も激しい戦闘が行われました。
 事実関係は不明ですが、鉄砲の性質上、この池田城の攻防でもやはり鉄砲が実戦使用されていたと考えられ、戦況を左右した事でしょう。
 そしてこの事が、後の摂津守護の中に池田家が組み入れられた事とも大きく関係(新将軍義昭にとっては京都至近の最大の敵でありながら)しているようです。



写真:三好長慶墓

三好長慶墓

写真:鉄砲

鉄砲

イメージ:池田筑後守勝正

池田筑後守勝正

写真:大和多聞山城跡

多聞城跡

イメージ:池田城跡発掘調査

発掘調査報告書

画像:織田信長

織田信長像

「池田城の防衛線」

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「防備施設の事」

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