ページナビゲーション:呉江舎
ページナビゲーション:呉江舎
ボタン:ホームへ ボタン:わが街池田 ボタン:五月山 ボタン:池田の観光 ボタン:池田の特産 ボタン:池田の町並
ボタン:ぶらっとええとこ ボタン:企画予定コンテンツ ボタン:アクセス池田 ボタン:リンク ボタン:訪問者筆記帳
バナー:親愛なる池田市様
ページタイトル:摂津池田氏
※解った事から徐々に文章更新しています。最新の更新部分は青色の文字で表示しています。ご覧下さい。

<池田家の没落と村重の台頭>
荒木村重は名実共に北摂(摂津)の実力者となり、政治的にも巧みに中央勢力(信長勢)へ食い込んで、北摂での勢力を更に伸ばします。また、戦功も華やかで一目置かれた存在になります。
 1573(元亀4・天正元)年7月、信長から「摂津一職支配」を許されて摂津国の統治委任を受け、順調に村重は勢力を拡大していきます。

 一方、池田家当主の知正は、前述のように義昭について織田方に戦い(槙島城の戦い)を挑んだにも関わらず信長に許されて、知正は村重と力を合わせるよう命じられたようです。
 勢いに乗った村重は残りの敵対する池田勢の掃討にかかり、原田城勝正を攻めて追い、そして、1574年11月に難攻不落といわれた伊丹城(有岡城)をも落として伊丹氏を滅ぼします。
 その後間もなく村重は、拠点を池田から伊丹に移した事から、池田城は再び池田氏の居城(というよりも在地。旧城地から南へ2キロメートル程の神田館(砦)に居たようです。)となって知正が守る事になったようです。その後の豊臣政権からも知正は摂津の豊島(てしま)周辺に2,780石の禄を受けています。
 しかし、村重が伊丹に拠点を移したといっても、完全に池田のその地位がなくなったわけではなかったようです。
 古文書には、伊丹と池田を合わせた大城とも書かれたりしているので、どの程度かははっきりしないものの、双方が対を成す構造になっていたかも知れません。
 そういう事から考えても、池田にかつての家臣が居て、何かの役を担っていたとも考えられます。
 ちょっと脇に逸れましたが、そうして村重は摂津の国人勢力を掃討・制圧し、配下に組み入れて、いわゆる、戦国大名に成長します。
 村重は、池田氏が果たせなかった事を短期間に成し遂げて、この頃村重は絶頂期を迎えます。

池田氏家系図はこちら



画像:荒木村重

荒木村重像

画像:池田知正

池田知正画像

写真:和田惟政の墓

和田惟政の墓

写真:槙島城跡

槙島城跡

原田城跡

原田城跡

イメージ:池田筑後守勝正

池田筑後守勝正

写真:伊丹(有岡)城跡

伊丹城

池田城

池田城跡公園
<マップB-3>

写真;池田市神田館跡

神田館(砦)跡
<マップB-5>

「両陣営に分かれて活躍する池田衆」

←・→

「村重の活躍と没落」

一覧へ戻る


▲ページのトップへ


呉江舎について個人情報の取扱い免責事項│ 


バナー:ホームページ制作の池田屋
当サイトは、ホームページ制作の池田屋が、
管理・運営致しております。
Copyright (C ) Ikedaya All Rights Reserved.