見出し:池田城関係の図録
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写真:伊丹・有岡城跡伊丹・有岡城跡
The Itami&Arioka castle of remains.

伊丹城は南北朝時代の1353年(文和2)に始めて文献に登場するとされています。摂津国有力国人としての伊丹氏は、この伊丹城を活動拠点としていたようですが、その具体的な活動については記録が残っていないようです。惜しい事です。また、1520年(永正17)には、日本最初の「天守」の記載が見られるというのは注目すべき点です。それ故に、伊丹城からの歴史を継ぐ有岡城跡は、国の史跡に指定されています。
 また、先見的な構造を取り入れて要害を巧みに利用した伊丹城は、応仁の乱以後の戦乱時代の史料中には「難攻不落の城」との記述も見えます。

 その後、織田信長政権下で荒木摂津守村重が摂津国内を平定し、城を池田から伊丹へ移しました。そして新しく「有岡城」と定め、軍事・経済ともに伊丹を拠点としました。その時、城の大改修がなされます。それは、池田城では不完全であった惣構を発展させ、防御力を大きく強化したものでした。この当時、こういった構造は先駆的なものだったようで、平地にありながら鉄砲などの攻撃にも備えた強力な防禦力を持っていました。1577年(天正5)に村重を訪ねた宣教師ルイス・フロイスは「甚だ壮大にして見事なる城」と語っています。

 1576年(天正4)1月中頃から安土城の建設が始まりますが、どちらも先駆的ではありながら概念の違いが如実に現れているといえます。安土城は象徴的、有岡城は実用的な点で、同じ城といえども性格を全く異にしているようです。
 更に見ると、安土城はどちらかというと「山城」的要素の強い城ですが、有岡城の場合は、自然地形を巧みに活用して惣構えを施した「平城」です。また数(十)キロメートルに及ぶ縄張りを持つ戦略的な城であったとも考えられています。
 村重は、それまでの経験から、発展した畿内の築城技術などを学び取っていったのだろうと思われます。摂津の池田氏、三好氏、松永氏、本願寺勢力、キリシタンなどあらゆる要素の中から取捨選択して結実させたのが有岡城だったのでしょう。

 暫くして村重はこの城を頼りに織田信長へ反旗を翻し、配下の中川清秀や高山右近なども加担して長期戦となります。それは、摂津国内の拠点が全て加わる総蜂起でした。しかし、間もなく、中川・高山の両人は信長の軍門に降りますが、堅牢な城郭を持つ有岡城は、滝川一益・池田恒興・明智光秀・前田利家等の猛攻を受けても暫く陥ちませんでした。
 謀反から十ヶ月後、村重はなかなかやってこない毛利氏の援軍を催促するために城を離れたところ、有岡城は落城してしまいます。

 近代に入り伊丹城跡は、鉄道建設と同時に東側を失いましたが、本丸付近の石垣は今も保存されていて公園になっています。石垣に使われた法塔には当時の気迫を感じます。また、伊丹の歴史や城については、伊丹市役所近くの市立博物館で詳しく見る事ができます。


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