見出し:池田氏関係の図録
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写真:山城国槙島城跡槙島城跡
The remains of the Makishima castle.

京都府宇治市槙島にあった槙島城ですが、今となってはご覧の石碑が残るのみです。
 しかし、石碑といってもぽつんと片隅にあり、不要品を寄せ集めてある一角にあります。ここも歴史的には、大きな出来事があった場所だけに、その扱いに何か寂しさを感じます。地元の方に聞くと、石碑は元の農協の敷地から、建て替えられる時に、今の場所に移されたとのことでした。
 さて、ここも池田氏所縁の場所です。1573年(元亀4)2月、将軍義昭は自ら京都の二条城で挙兵します。しかし、すぐに織田信長は大挙して鎮圧に向かい、将軍義昭は降伏します。
 それから間もない同年7月3日、将軍義昭は三千七百程の兵とともに、槙島城で再挙兵します。この時、摂津池田衆の一部も将軍に従い、槙島城に篭っていたと記録にあります。池田勝正、池田四人衆の一人である池田清貧斎正秀らが在城していたようです。
 また、篭城の兵数だけで見れば、反乱には取るに足りない数ですが、同時に各地で、時に合わせた蜂起があり根回しのできた行動でした。
 しかし、これも迅速な、信長の対応で同月18日に鎮圧されます。足利勢は二面から攻める信長勢と激しく戦いますが、城の外構えを破られ、まもなく放火され始め、将軍義昭は降伏を申し入れます。また、この槙島城の攻め手には、荒木村重などを中心とする摂津池田衆が参加していました。
 この戦いで、将軍義昭を中心とする室町幕府方は決定的な敗北となり、義昭は自分の二歳になる子、義尋を人質に出し、将軍一族郎党は京都から追放となります。

 この槙島城の戦いは、室町幕府にとっても摂津の国人池田家にとっても、その行く末が決まった大きな転機でもありました。そんな顛末を知ると、この石碑の前に立った時、色んな思いが巡ります。


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