見出し:池田城関係の図録
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写真:摂津原田城跡摂津原田城跡
The remains of the Harada castle.

小高い丘陵上にあった摂津国豊嶋郡原田城は、今も大阪府豊中市曽根西町にその跡がありますが、そこには豊中市教育委員会による案内板が建てられています。それによると、原田城の築かれた年代は詳しくわからないようで「足利李世紀」という古文書から考えると、1541年(天文10)11月4日に細川晴元の家臣木沢長政が、原田城を攻めたという記述があって、16世紀の初頭(15世紀前半以前の説も有り)には築かれていたと推定しています。
 また、1547年(天文16)2月20日にも細川晴元の軍勢、三好長慶・同名義賢ら約3万に攻められて落城しています。その時と同じ年月日を刻んだ小型の五輪塔が、服部緑地内の民家集落博物館の一隅にあります。そこには原田右衛門尉と刻まれていますが、その戦いで亡くなった武将なのかもしれません。

 この原田城は、北城と南城の2城があって、案内版が建てられている所は北城があったと想定される場所だそうです。北城の規模は、東西160メートル、南北320メートルの規模で堀(東西約160メートル×南北約320メートル)もあったと考えられています。一方、南城は居館的に使われ、平時はここで生活していたらしいです。
 しかし、尼崎市富松町にある富松城跡も、東西2つに分れている形跡があり、当時の村と支配者層の関係にも注目される城の存在形態のようです。
 最近は、一体化した構造の可能性も高いと考えられていますが、私も一体化の方向の考え方に興味を持っています。豊中市教育委員会の文化財担当部署は、とても熱心に調査を行なっていますので、その全容は次第に明らかにされる事でしょう。楽しみです。
 そして更に後、荒木摂津守村重有岡(伊丹)城で謀反を起した時には、この原田城も付城として中川清秀等が入っています。

 さて、この原田城の付近は城下としての集落で、また周辺枝郷を束ねた本郷でした。14世紀中頃からここに勢力を持っていた原田氏は、後にここに城を築いて、池田氏とも近しい関係(上意を伝令する関係)であったようです。池田家との家臣関係もあったようです。
 1570年(元亀元)6月に池田筑後守勝正は、荒木村重や中川清秀らによって池田城を追われますが、間もなく細川兵部大輔藤孝らの軍勢を伴って池田城を攻めます。
 しかし、落ちなかったために原田城に勝正が入って池田城に睨みを利かせました。以前からの関係が、ここにも関係しているのではないかと思います。

 最後に、中世の文化財ともいえる、この原田城跡も再開発に伴う破壊の危機に直面していたのですが、豊中市教育委員会の担当者の熱意と尽力により、土地所有者からの寄贈されました。大変すばらしい事です。寄贈を受けて現在は、その有効活用のため、市民団体がその管理などを行なっています。
しろあと通信(原田城跡・歴史と文化の会)

<参考>
豊中市史、川西市史、宝塚市史、言継卿記、三好長慶(人物叢書)、戦国三好一族、日本城郭大系12、戦国三好一族、池田市史1、日本城郭全集9、日本城郭体系12など

2009年6月13日:編集


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