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ページタイトル:摂津池田氏
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細川晴元政権時代>
細川澄元の嫡子六郎晴元が、父の遺志を継いで細川高国打倒の活動を続けます。
 六郎晴元は、阿波・讃岐・淡路の守護や国人などの応援を得て、一旦は高国を京都から追い落とす勢いを得ます。しかし、右京大夫高国も手を尽して反撃体制を整えます。右京大夫高国は、播磨国人や大名を味方につけ、東へ進撃。摂津国へ入り池田城をも攻めます。また、山城国吉祥院城も攻め、京都へ侵攻するかの勢いを見せました。
 六郎晴元は、右京大夫高国へ決戦を挑みます。六郎晴元衆三好筑前守元長を中心とする一万五千程の軍勢は、摂津国天王寺へ本営を置いていた右京大夫高国を攻め、壊滅的な打撃を与えて敗走させました。また、この時に六郎晴元は、播磨守護赤松政村(後の晴政)を味方につけて、播磨国から右京大夫高国方の背後を圧迫させていました。
 この天王寺の合戦では、六郎晴元方が大勝し、右京大夫高国は逃亡します。享禄4(1531)年6月8日、摂津国尼崎で右京大夫高国は捕らえられ、即日、同地の広徳寺で切腹となりました。三好山城守一秀の介錯だったと伝わっています。
 歴史学的には、この時を以って「大物崩れ」といわれる高国政権崩壊となったとされています。これを機に六郎晴元は、その勢いを増し、活動を活発にしていきます。
 しかし、間もなく六郎晴元を支えた主力である筑前守元長とも不和になり、六郎晴元は、筑前守元長をその同盟者である河内守護畠山義英と共に攻め滅ぼします。そしてこの時、六郎晴元は、軍事力の不足を補うため、本願寺宗に協力を依頼し、六郎晴元勢は軍事的優位で以って反勢力を討伐したのでした。
 しかし、更に、予想外の事態が発生しました。本願寺宗徒が、自らの力に目覚め、六郎晴元の思惑から外れた行動をし始めたために、これらを弾圧しようとします。
 詳しくは、「天分の宗教戦争」の項目をご覧頂ければと思いますが、六郎晴元は軍事力の背景として、法華宗へ協力を依頼します。この事が、摂津・河内・和泉・大和・山城・近江国などの国々に大混乱をもたらし、毎日どこかで戦闘が行われる無法地帯と化します。
 天文2(1533)年2月には、六郎晴元自身が淡路国へ避難する程に混戦状態となります。この事態に、摂津国人池田筑後守信正も六郎晴元方として、他の国人衆と連携しながら、苦しい戦いを続けざるを得ない状態でした。
 しかし、京都を中心とした法華宗徒が善戦し、次第に本願寺宗徒勢を圧倒するようになり、遂に本願寺方は、六郎晴元へ和睦を願い出ます。
 この仲介を阿波守護代の三好長慶(筑前守元長嫡子)が果たし、両者を和解させています。この事は、六郎晴元方へ三好一族が復帰するキッカケとなったようです。以後、長慶は、六郎晴元に重用されていきます。
 六郎晴元の伸長を阻む本願寺宗を法華宗の協力を得て武力鎮圧したところで、今度は、法華宗徒も六郎晴元の思惑を超えた行動をし始めるようになります。六郎晴元は、法華宗の弾圧を始めます。
 六郎晴元は、各地の守護や各国人衆といった武家を中心として、法華宗と一部の抗戦派本願寺宗徒を制圧にかかり、天文5(1536)年9月にはそのメドが立って帰京しました。続いて翌年8月、六郎晴元は「右京大夫」を朝廷と幕府から認められて、管領となり、正式な政権を始動させる事となります。
 摂津池田衆は、この間、終始細川晴元方として行動しており、晴元からも信任を得て重用されていました。天文8(1539)年6月、池田家当主池田筑後守信正は、幕府から毛氈鞍覆・白笠袋使用の許可を得、家格を上げる事にもなりました。
 管領職に就き、細川晴元政権が誕生したとはいえ、戦争の無い年は無く、静かで安定した政治が行われたとは言い難い日々が続きます。天文18(1549)年に細川晴元は京都を追われ、政権が崩壊しますが、その年迄、常にどこかで戦争を行っていました。
 六郎晴元は、管領という将軍の執政の立場であり、将軍を政治・軍事的に補佐する立場にありましたが、その目的から離れて、管領職に就く事そのもので争いを繰り返していました。これを巡って周囲の者達も離合集散し、その利益を測るという、正に戦国時代の中心となって、日本全国を争いの世にしてしまったのです。さて、管領職に就いてからも右京大夫晴元の周辺では不和や争いが絶えませんでした。
 天文8年閏6月、右京大夫晴元側近でもある三好長慶が武装蜂起し、同年7月に和解。同じく晴元側近の木沢左京亮長政が、天文10(1541)年9月に河内守護代遊佐河内守長教などと協働して武装蜂起し、翌年3月に武力鎮圧。天文11(1542)年12月、反晴元方として細川次郎氏綱(細川尹賢の子で、同名高国の養子)が、木沢長政残党や紀伊国根来寺宗徒・大和国民筒井順慶などと共に武装蜂起。これは、河内守護畠山稙長の協力も得るに至り、大きな反晴元勢力となって、晴元政権を圧迫していきました。
 その間にも、右京大夫晴元側近同士の不和があり、三好政長と同名長慶が、同族でありながら互いに非分を主張して事態の収拾がつかなくなっていました。しかし、この時長慶の言い分に大儀があり、政長は隠居(その後宗三を名乗った)する事として家督をその嫡子新三郎政勝に譲り、一応の社会的責任行動はとりましたが、問題解決とはなりませんでした。結局、右京大夫晴元が、政長・政勝父子に対して公平に欠く贔屓を続けた事で、周辺の不満が治まらず、武力衝突に至って、これが晴元政権の崩壊となってしまうのでした。
 そんな中、摂津国人池田筑後守信正は、その混乱にも沈まず晴元に重用され、側近的な扱いを受けていました。天文10年11月、反晴元方木沢長政勢に池田城が囲まれた時、晴元はこれを救援すべく、積極的に行動しています。また、天文13(1544)年11月28日に筑後守信正は、晴元と共に京都で連歌会に出座したりしています。
 軍事的にも晴元方として、常に出陣しており、天文14(1545)年5月24日には千五百名の兵を率いて山城国南部の山科方面へ向けて、京都から出陣しています。これは、晴元側近衆の三好長慶と同数で、同名政長よりも多く、また他の国人衆と比べても遥かに多い数の兵を動員できる程の実力を持つまでになっていました。
 摂津の有力国人ではありましたが、天文13年には単独で守護格にも迫る程の軍事動員力をも可能な経済力を持っていたと考えられます。
 池田筑後守信正は、拡大した資産を守ろうとしたのか、晴元と不和になったようで、天文15(1546)年9月に細川晴元方となる事を表明します。この頃、次郎氏綱は、和泉・河内・大和・紀伊国などの方面で大きな勢力になっていました。筑後守信正は、この動きに希望を繋いだようです。
 しかし、晴元は、これまで重用してきた筑後持守信正のこの行動を許さず、直ぐさま討伐の軍勢を差し向けます。
 天文15年9月10・16日に池田城を攻撃します。更に翌年2月、畠山在氏なども誘って、大規模な軍勢動員を行い、同月20日、池田城の支城的役割をも持つと考えられる原田城を落とします。
 更に、6月25日に芥川山城が落ちた事から、筑後守信正は姻戚関係にある三好宗三政長を通じて、右京大夫晴元へ降伏を申し入れました。
 また、7月21日、河内国舎利寺付近の合戦で晴元は、細川次郎氏綱勢に大勝し、決定的な優位を得ます。右京大夫晴元は、氏綱勢に圧され気味ではありましたが、一時的には再び勢いを得ました。
 そんな状況での晴元は、冷静で公正な判断を欠き、当時の社会通年を大きく越えた裁定を下し、謀反を企てた咎として、筑後守信正を切腹させます。
 この事は、晴元・氏綱の和睦が成立して直後の事であり、且つ、筑後守信正は出家と等しい入道となって恭順していたにも関わらず、最も重い罪を科したという結果に、社会的な疑問が投げかけられました。これは、晴元の政治的な能力を問われる象徴的な出来事となってしまいました。
 また、摂津国池田家と姻戚関係でもあった三好宗三政長が、池田家を擁護するどころか、その財産を私有化しようとしていた事について、問題視されていましたが、これを容認した晴元は、更に社会的信用を失い、天文17(1548)年8月12日に三好長慶は、晴元など関係者へ直訴を行う事態となりました。
 晴元はこれを治める事ができず、同年10月、三好長慶など多くの大小名や国人が、氏綱方となり、晴元から離れます。
 そして同月28日、遂に軍事衝突となり、三好長慶など氏綱勢は、晴元側近の三好宗三政長居城である、摂津国東成郡榎並城を攻囲します。更に翌(1549)年6月24日には、三好長慶が三好政長を同国江口で討滅した事から、晴元は総崩れとなって本営の三宅城から敗走。間もなく、晴元は京都からも逃走します。
 同年7月4日、細川次郎氏綱を擁した三好長慶は京都へ入り、氏綱政権樹立の第一歩を支えたのでした。
 その後晴元は実権を失い、京都周辺の丹波・近江国などへ潜伏しながら、氏綱・三好長慶の打倒を目論みますが、勝てず、永禄6(1563)年3月に没します。
 時代は晴元から嫡子昭元へ移りますが、「管領職」を巡って常に派閥の離合集散と派閥間の闘争が続けられていました。

池田氏家系図はこちら



池田城

池田城跡公園
<マップB-3>

細川高国像

細川高国像

石山本願寺城跡

池田家を支えた兵士達

池田家の兵力

原田城跡

原田城跡

摂津榎並城跡

摂津榎並城跡

摂津江口城跡/寂光寺

摂津江口城跡

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