見出し:池田氏関係の図録
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写真:摂津江口城跡摂津江口城跡
The ruins of the Eguchi Castle.

摂津国西成郡江口村(現大阪市東淀川区南江口)付近に江口城があり、1549(天分18)年6月24日に落城したと、史料上の記述があります。ある意味において、この江口は、日本史上での重要な転換点となった場所でもあります。
 しかし、この城については多くの城と同じように、発掘調査が行われていないために不詳です。史料上の記述からすると、どうも一時的に築いた陣城のようだ、とも推定されています。
 さて、この江口という集落についてですが、淀川と神崎川の分岐点から西へ帯状に延びて形成されていたようです。また、江口村と対岸の一津屋(現摂津市一津屋)との間に「渡し」もありました。江口村は、いわゆる水上交通の要所でした。その発展の歴史は、785(延暦4)年に淀川と三国川との間に新川を掘って水路で結ぶ工事が行われた事に遡ります。この改修工事によって淀川と三国川が連結され、平安京から山陽・西海両道へ繋がる経路と南海道方面への経路とに分かれる交通の要所としての位置を江口村は、占めるようになりました。
 山陽・西海・南海の三道を往来する者は必ず江口を通り、そのため江口に宿泊する人々も増えた事から次第に発展していきました。また、江口には関所が置かれていました。
 1549(天文18)年、そんな江口に、細川右京大夫晴元衆三好宗三政長が、6月11日、摂津国三宅城から兵を率いて出陣しています。この出陣は、友軍である伊丹城・一庫城、宗三政長嫡子の篭る榎並城、それらの拠点に対する江口が、京都を結ぶための一時的な軍事上の要所となったためです。
 しかし、この頃、右京大夫晴元に対する細川次郎氏綱方三好筑前守長慶・同遊佐河内守長教勢が、柴島城(現大阪市東淀川区柴島)や堀(中嶋)城(同区十三本町付近)・別府村(現摂津市南別府付近)を制圧し、江口の宗三政長勢は、危うい状況となっていました。推定されている通りだとすると、江口城は、ほとんど防御施設もなく、また、整えようにもそれを十分施す程の時間を敵が与えるわけもありません。
 筑前守長慶勢は、江口の宗三政長を攻め、宗三政長を始め右京大夫晴元方の有力武将の多くを討ちました。これにより、右京大夫晴元方は総崩れとなり、三宅城の本営から逃れます。そして更に、京都からも落ち延び、以後は再び京都へ復帰する事ができませんでした。
 前管領の細川右京大夫高国の「大物崩れ」に準えると、晴元の場合も死亡による政権崩壊ではありませんでしたが、京都へ復帰できずに政権を復興できなかったという意味では晴元の場合も「江口崩れ」という言い方があてはまるのかもしれません。
 そんな意義深い江口には、1205(元久2)年開創と伝わる寂光寺(江口の君堂)が今もあります。写真はその様子です。
※写真は2003年に撮影。

参考>
大阪市史2、川西市史1、尼崎市史4、亀岡市史(資料編1)、戦国三好一族、三好長慶(人物叢書)、日本城郭大系12、戦国合戦大事典4、大阪府の地名1、日本城郭全集9、本願寺日記-下、戦国期歴代細川氏の研究、室町幕府解体過程の研究など

2007年1月2日:記


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