見出し:池田城関係の図録
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写真:大阪府池田市旧大西垣内旧大西垣内
The remains of a chief retainer's house, the Ikeda family

今のところ、いつ頃の状態かはっきり特定できないようですが、その内容から考えると1574年(天正2)以降、荒木村重伊丹に移ってからのことであろうと思われます。伊居太神社蔵「穴織宮拾要記 末」の中に「五人之家老町ニ住ス」と記されています。池田家の重臣が池田城を中心として配されていたようです。その中のひとつ、今は出雲大社池田分社のあるこの写真のあたりに、家老大西余市左衛門の屋敷があったようです。その後、江戸時代には池田村の代官屋敷が置かれいました。

 さて、五人之家老とは池田民部、大西与市右衛門(大西垣内に屋敷)、河村惣左衛門、甲?伊賀上月角?衛門と記されています。以下、その文を抜粋すると、

一、 今の本養寺屋敷はハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也
一、 家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也
一、 家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル(後略)
一、 家老甲?伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也
一、 上月角?衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云
右五人之家老町ニ住ス


という事です。記録によれば、家老は町中に分散して居住していた事になり、侍屋敷や町家・百姓などが混在する状態だったようです。
 中世末に侍と町人などの役割分担がはっきりと分けられた城下町が出現しますが、平城が中心となるまでは、築城技術的(?)・観念的に惣構えというものがなかったと考えられていますから、中世的城郭の池田では、武士達は地域内に分散している方が都合が良かったのかもしれません。
 前記の考えとは全く逆に、この現象はある程度有力家臣の城下集住がなされていたと考えてもよいのかもしれません。近世城郭の前段階かもしれませんね。また、池田城と周辺地理の関係を見ると惣構えの芽生えを思わせる立地になっています。今の概念ではあてはまらないだけかもしれません。
 それから、中世の城下町は武力の下に商業活動があったわけではなく、どちらかというと商業活動に属したカタチで武力が存在していたらしいです。ですから、町の用心棒的に武力集団があったと考えても実際とは合うのかも知れません。
 しかし、多くの史料から時代が降るにつれて、次第に町に対する支配浸透が進んだことがわかってきています。

 さて、記録に出てくるこの大西という所は、他とは違う意味のある場所だったようで、久代村(川西市久代)の記録には「池田大西殿」などと書かれた文章が残っていて、このことから池田輝海氏は、ここが代々城主筋の屋敷だった事を推定されています。興味ある研究です。

 しかし「家老大西与市右衛門」とはどんな人物だったのでしょうか?前例から考えると大西=池田姓と考える事もできますが、与市右衛門とは聞いた事のない名前です。なぜ大西に?大疑問です。

マップ(詳細図)はA-ア

追記:2002年5月10日頃、出雲大社池田分祠の前に立って愕然です。社殿の建て替えをしていました。発掘などは行われていないようですので、上記の件についてはこれで永久に迷宮入りです。


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