池田氏関係の図録
知正・三九郎墓等伝荒木村重墓
The Murashige araki's grave by oral tradition.

 今は祠の中にある石碑ですがこれが何と荒木村重の墓という伝承があります。元はこの付近にあった三角の塚にあった石碑だそうですが、周辺が近代化するにともなって現在のようなカタチとなり残っています。
 この他にも付近に数カ所、このような村重にまつわる墓や腹を切ったところだと言われる場所があ残っています。
 また、この村重の墓は、江戸時代に発刊された地域(旅行)ガイドブックで摂津名所図絵というものがありますが、そこに「荒木塔」として描かれています。
 でも、池田市に村重の墓があるなんてどういうことでしょうか?村重は摂津池田氏の家臣から身を起こして、信長家臣団の方面軍司令官級に匹敵する地位に登りつめる出世をします。
 最終的に村重は、信長に謀反を起こして破れ、没落します。その後、豊臣秀吉の御伽衆を勤めたりしながら茶の湯に親しんだりして、泉州堺の南宗寺に没したと伝わります。
 池田に墓があるとは、何か裏の話でもあるのでしょうか?それとも本当にここで死んだのでしょうか?彼の影武者(身替わり)がここで死んだのではないでしょうか。そんな気がします。

 室町時代も終わりの頃、池田氏は北摂津では再有力の国人に成長していました。ですから、京都の争乱に巻き込まれて、その時々に旗色を変えなければいけない国人の悲哀を何度も味わいました。荒木氏も池田家の家臣として活躍し村重の頃には、池田家から嫁をもらい一族扱いされていた程でした。
 そんな折り、摂津は戦乱続きの殺伐とした状況でしたから、池田城は何度も戦に巻き込まれ、合戦を経験しました。この村重の墓はそんな背景から飛び出した伝承でしょうか?信じがたい事ではありますが、まるっきり否定できる材料も今のところないようです。
 また、池田に古くから住んでおられる方の話しでは、明治43年に阪急電車の線路布設工事があった時に、工事現場から池田城の関係かどうかはわからないけども、石垣のようなものが出たとの事で、村重の墓と何か関連性があるような感じもします。興味深い話です。

マップはB-イ



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