見出し:池田氏関係の図録
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写真:東大阪市森河内西2丁目付近の旧集落東大阪市森河内
The Morigawachi in Higashi-Osaka City.

大和川付け替え以前の森河内は、河内国若江郡に属していたようです。『大阪府の地名2』(日本歴史地名大系28)によると、室町時代末頃、東は稲田村・川俣村に接し、新開池の西からの流れに村の北東で楠根川が、北西部で長瀬川が各々合流していた、としています。また、同郡は、そのものが大きな島のようになっていて、橘島とも呼ばれていたようです。森河内はその島の北西部分にあたります。ちなみに、若江郡には有名な若江城があります。
 この森河内村は、今の東大阪市森河内西1〜2丁目、同東1〜2丁目の地域で、中心部は、西2丁目から東2丁目の西側の一部と思われます。この地域は、大和川の付け替えの影響もあまり無く、中世から現代まで集落は、だいたい同じ位置にあるようです。
 実はこの東大阪市の森河内、筆者の生まれ育った大阪市城東区諏訪1丁目の至近で、そこに親戚もあったため、頻繁に通った場所でもあり、遊び場(行動範囲)でもありました。
 西暦2010年現在、今ドキの建物も増え、道路状況など環境も変化したとはいえ、昔の面影を今もとどめた地域で、「村」だった頃の雰囲気も残っていますが、今後はもう無理でしょうね。開発の前にせめて行政による発掘調査はして欲しいものです。

さて、森河内村は、前記のように水運の要所でもあり、また、摂津・河内国境にも近い陸路の交差点としての要所であり、更に本願寺宗拠点の一つとしても重要な場所でした。付近では、稲田・長田・左専道なども同宗の影響を受けて多くの寺があり、この地域は宗教的に一体化した関係にありました。
 森河内村の中心部は、水害に備えたであろう微高地で、その重要性と要害性から戦時には、度々陣地として使われた事が史料に現れます。
 1534年(天文3)、細川晴元と本願寺宗との闘争に関する史料に「陣取」の記述が見え、時代は下って織田信長と同宗との闘争の中でも筒井順慶・明智光秀・細川(長岡)藤孝などが森河内に拠点(陣)を置いている記述があります。更に下って、大坂冬の陣でも徳川方の本多忠朝が布陣したとの記録があるようです。
 また、森河内村は「正保郷帳」という記録の写しなどによると、村高は582石余で、幕府領でした。それ以後も幕府領が続いているらしい事を見ると、非常に重要な場所であった事が裏付けられているように思います。
 森河内村の中心部から少し北には、産土神として八幡神社がありますが、この本殿は室町時代末期にまで遡ると伝わり、この事から村人は勿論、もしかするとこの地に陣取った明智光秀などの武人も武運を祈願して詣でたのかもしれませんね。
 森河内はJR放出(はなてん)駅(学研都市・大阪東線)からそう遠くはありませんし、近隣には、森河内のような環境の旧村が多くあります。是非一度歩いてみて下さい。また、サイクリングなどもいいかもしれません。

<参考>
本願寺日記、私心記、大阪市史5(史料編)、八尾市史(史料編)、寝屋川市史3(古代・中世史料)、門真市史、亀岡市史(資料編2)、織田信長文書の研究、耶蘇会士日本通信、フロイス日本史、大阪府の地名2、久宝寺寺内町と戦国社会、八尾の寺内町(久宝寺・萱振・八尾)、大和川流域と高安山など

2010年1月14日:記
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