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写真:河内国若江城跡河内国若江城跡
The ruins of The wakae castle

河内国若江郡にあった若江城は、写真の碑があるあたりが、主郭のあったところといわれています。今は城の遺構は何も残っていません。
 現在の東大阪市若江南町・北町・本町あたりです。かつては「来栖」などの小字名が残っていたそうですが、町名変更で今はその名もありません。
 中世の城は多くが明らかではありませんが、この若江城跡もその一つです。担当である東大阪市自体が、調査や発掘にあまり熱心ではありませんので、今後も明らかになる可能性は低いと個人的な感想を持っています。
 さて、『日本城郭大系』などによると、若江城の創築は明応・応永年間の早い時期、畠山明国の時と推定されているようです。若江城のその様子を『応仁前記』では、「彼城四方深田也、口二ツに拵えて所々を掘り切り掻き、逆茂木引て」と記しています。その当時は守護所としての城であり、政治的中心地であったと考えられています。
 しかし、1478年(文明10)10月に落城して以来、河内守護畠山義就が同国高屋へ築城して拠点を移した事で、若江の中心地としての地位は低下したようです。
 その後天文初年に近江守護六角定頼の支配する城となっていたともあるようですが、定かではありません。しかし、同国河内郡吉原村にある霊松山西光寺(現東大阪市吉原)の開基は近江守護六角氏一族に縁りを持ったりしていますので、起源に遡る調査が足りないだけかもしれません。
 そんな若江城は、その創建から1583年(天正8)頃の廃城まで約200年にも渡り使用されていたため、時代により大きく異なり、特に1568年(永禄11)以降は近世概念が物理的にも反映されて、大規模化されていたと思われます。それはまた、城郭のネットワーク化も視野に入れる事が自然な方向だと個人的には考えています。
 実際、南北に細長く、河川の多い河内国を統治するためには、移動を迅速に行うために、各々の城の連絡を迅速に行う事で、その軍事的な不利益を補わざるを得なかっただろうと思います。
 さて、城のある若江郡は、旧大和川・玉串川・長瀬川・楠根川に囲まれた大きな島のようになっており、橘島とも呼ばれていたようです。そこには、森河内(現東大阪市)など本願寺宗の寺内町や岩田村(現東大阪市)など多くの集落、また、河内(枚方)街道・十三街道(俊徳道)を通していました。
 若江城はそういう環境に築かれた平城で、川を使った水運に加え、街道を城下に有効的に取り込んだ造りとなっていたようです。若江城は、河内国の中間地点に位置して要地でしたので、飯盛山城などと連携した運用がなされていたのかもしれません。
 また、主郭(本丸)部分は、東西130メートル、南北150メートル程あり、発掘調査では二重の堀、土塁跡、櫓などの建物遺構、井戸跡などが検出されています。また、漆塗りの黒瓦も出土していて、建物が瓦葺きであった事も判明しています。その他、土器・武器類なども多数出土しています。

<参考>
兵庫県史、八尾市史(史料編)、寝屋川市史3(古代・中世史料)、信長公記、茶道古典全集、織田信長文書の研究、耶蘇会士日本通信、フロイス日本史、本願寺日記、大阪府の地名2、久宝寺寺内町と戦国社会、八尾の寺内町(久宝寺・萱振・八尾)、大和川流域と高安山など

2010年1月25日:編集
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