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ページタイトル:池田の観光(池田歴史探訪)

今も池田に残る史跡をご紹介します。池田は古くから開け、歴史的遺物もまだ多く残します。一般的に全国で有名なものはありませんが、それに付随するゆかりのものは多くあります。
 池田は、歴史的に有名ではない分たたずまいは静寂そのものでゆっくりと見物できるという環境は逆に強みかもしれません。池田は古くからの要地であり、商業活動なども活発でした。その豊かな「富」で独自の文化圏を持っていたようで、歴史上著明な人物からの寄進物や紀行記録なども多く残されています。特定の人物を帰納法的に連想して行くこともできるのではないでしょうか。
 『古きを訪ねて、新しきを知る』なんて事も十分ある静かな環境で、歴史にひたってみてはいかがですか?池田は、大阪から20キロと直ぐ近くです。どうぞお気軽にお越し下さい。




写真:久安寺久安寺 
Kyuan temple

久安寺は西暦725年(神亀2)、聖武帝勅願で行基の開創。後に1145年(久安元)、近衛帝勅願賢実により中興という古刹です。1595年(文禄4)には、豊臣秀吉も塔中常住院で「観月茶会」を催した寺院でもあります。中でも楼門は室町初期の建築といわれ、間口三間、奥行き二間の入母屋造で国の重要文化財に指定されています。その他宝物殿には国指定重要文化財の阿弥陀仏如来座像や市指定涅槃図、縁起絵巻などの多くの寺宝を収蔵しています。
 参道沿いのモミジや季節毎の花は見ごたえ十分です。特に紅葉の季節は、多くの見物客が訪れます。また、曼荼羅の世界を表現した1万平方メートルの虚空園は、地元池田の造園グループの作です。広々とした庭園に四季の花が咲き、楽しめます。ちなみに、拝観受付けでたのめば、抹茶と和菓子のセット(500円)も楽しむことができます。
 また、久安寺内には随所に趣向を凝らした作庭がされています。静かな園内で風景鑑賞をするのもいいですし、カメラ好きの方にもよい場所です。ごゆっくりお過ごし下さい。


池田市伏尾町697(MAP A-1)
TEL:072-752-1857 FAX:072-754-1554

料金:300円
休館日:なし
開館時間:午前9時〜午後4時
※無料駐車場有り


電車・バス:阪急宝塚線池田駅下車、阪急バス「久安寺」下車。タクシーで15分くらい。
マイカー:阪神高速道路池田線、木部第一号出口下りる。池田市より国道423号線で北へ15分位です。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。




写真:池田市魚雷格納庫跡魚雷格納庫跡 
A hangar for torpedos

 東山山麓には大平洋戦争中に作られた魚雷格納庫跡があります。1945年(昭和20)3月から6月にかけて急造されたもので、明治時代から磨き砂を採取するために作られた穴を利用しています。この付近一帯に魚雷を始めとした資材を保管していたようで、奥へ進むと石積が施された通路のような道がかなり長い距離に渡って伸びています。
 旧陸海軍関係の資料によりますと、「大阪府池田市東山横穴」として、魚雷105、実用頭部110、爆発尖119、信管134、伝爆薬143、火管540などとなっています。これらは、海軍第52魚雷調整斑が細河国民学校(現細河小)で整備や調整がされていました。近くのお年寄りに聞くと、当時、軍関係者が「休憩をさせて欲しい」と軒先きを借りに来たこともあったと言われていました。
 この魚雷は、伊丹空港の雷撃機に使用するためで戦争も末期になると艦載機や爆撃機による攻撃も頻繁になり、空港から少し離れた五月山に移管したようです。しかし、この魚雷は一度も実戦に使用されず終戦を迎えています。
 行ってみたところかなり激しく朽ちており、また、近くで造成(?)がされていて近い内になくなってしまうかもしれません。何ら保護もされていないため急速にその旧態を失いつつあります。しかもその全貌が明らかになっていません。全国にこういった戦争中の遺物がありますが、歴史を物語る貴重な遺物として保存に向けた何らかの措置が取られると良いのですが....。


池田市吉田町384(MAP B-2)

料金:なし
休館日:なし
開館時間:なし


電車・バス:阪急宝塚線池田駅下車、阪急バス「東山」下車。徒歩15分くらい。
マイカー:阪神高速道路池田線、木部第一号出口下りる。国道423号線で北へ約3分、東山バス停付近を北東へ5約分です。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。
※無料駐車場はありませんのでご注意下さい。また、格納庫跡は私有地にありますので適宜了解を得て下さい。




写真:池田城跡公園池田城跡 
Ikeda castle remains

 池田城は今のところいつ頃築城されたかははっきりしていません。しかし1336年(建武3)の「平国茂軍忠状」には池田城の名が見えることからその頃には既にあったと思われます。池田城は、五月山を背に標高40〜50メートル程の丘陵地に築かれていました。発掘調査によると池田城の初期は、館程度の小規模のものだったようですが、時代が下るにつれて拡張が計られ最盛期には、南北約550メートル、東西約350メートルに及ぶ城域を持っていました。尾根や崖といった自然を巧みに利用し更に幾重にも人工の「掘」を廻らせていました。堀の最大幅は25.7メートル、深さ6.5メートルとかなり大規模なものだったようです。特に北西隅の要害は主郭とされ巧みに防備がなされていました。また、大手門は西側に設けられて城下町に通じていたようです。
 池田城の特筆すべき点は、城内の南に能勢地方(妙見山)と大坂を結ぶ街道(のち能勢街道)を取り込んでいたことです。有事には閉鎖して流通を遮断したり、住人を保護したりしました。池田城は京都・大坂に近いため、応仁の乱から戦国時代には戦乱に巻き込まれ、度々落城の憂き目に遭いますがその都度再建を遂げます。1568年(永禄11)池田氏は織田信長に攻められ破れますが、取り潰しにはならず加増され、織田家配下の武将となります。その時期に池田城は、織田方の指導で城の防備を更に強化して一部石垣造りの城としたようです。
 以後は池田氏の失策によって、家臣である荒木村重に実権を握られて池田氏は没落していきます。間もなく村重は池田城を廃して伊丹(現兵庫県伊丹市)に本城を築きます。「信長公記」によると1578年までには池田城は廃城になっていたようです。その後、池田に城が築かれる事はありませんでした。
 池田城がまだ健在だった頃から400年以上経った現在、池田城跡は公園として生まれ変わるために整備作業が進行中です。完成後は城跡公園として、一般に解放される予定です。完成は2000年4月の予定です。


池田市城山町140-3(MAP B-3)

料金:無料
休館日:火曜日
開館時間:(6〜8月)午前9時〜午後9時/11〜3月)午前9時〜午後5時

電車・バス:阪急宝塚線「池田駅」下車、阪急バス「池田職安前」下車、徒歩5分。駅から徒歩は、10分くらいです。
マイカー:阪神高速池田線、川西・小花出口下りる。国道176号線から桜通り経由で五月山方面へ。綾羽町交差点北側すぐ。
※池田城跡に駐車場はありません。路上駐車は厳禁です。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。




写真:摂津池田旧市街の様子旧市街 
Old town area

 池田市は多くの街道を市内に交差させ、交易都市として栄えて古くから町が形成されていました。鎌倉時代には池田の集落が古文書に登場しています。その後、池田氏が城を築き城下町を形成、戦国の世が終わってからは再び交易都市として以前にも増して栄えていました。池田は元禄時代、江戸にも聞こえた名酒の産地として繁栄を極めました。他にも池田炭や植木などの諸産業に支えられて経済的にも北摂随一の都市に成長しました。
 また、それらの豊かな経済基盤を持つに至り、多くの文人・画人を招いたり育てたりと、小さいながら独自の文化圏を築いていたようでした。戦後も暫くは、北摂の中心的役割をになっていて、近年まで賑わいを見せていました。池田は、第二次世界大戦中戦災に殆ど遭わず、町並みは往時の名残りをよく残していましたが、戦後の高度経済成長期に多くが取り壊されたり、また、先の阪神・淡路大震災でも多くの被害を出して、その歴史的な景観も面影を失いつつあります。
 時代背景もあり往時を偲ばせる町域は縮小の一途ですが、本町・綾羽町(あやはちょう)・新町附近には今も風情を残しています。また、酒蔵も2軒操業を続けていて、歩けば目を引くものが未だに多くあります。夏には伝統的な地場のまつり「がんがら火祭り」が毎年行われて、年を追う毎に規模を拡大しています。やはり、伝統的町並みには、この伝統的まつりはよく合います。


池田市綾羽(MAP B-3)

料金:なし
休館日:なし
開館時間:なし


電車・バス:阪急宝塚線「池田駅」下車、歩いて10分。
マイカー:阪神高速池田線、川西・小花出口下りる。池田市内の国道176号線から阪急「池田駅」で桜通りに入り、五月山方面へ。綾羽町交差点を目標に進んで下さい。綾羽町交差点北西部が旧市街です。
※附近に駐車場がありませんので御注意下さい。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。




写真:伊居太神社本殿伊居太神社
Ikeda shrine

 正式名称は穴織(あやはとり)宮居伊太神社といいます。歴代の天皇・貴族・将軍など貴人の信仰が厚い神社でした。また、歴代天皇・皇族の勅願所として天皇が勅使をたてて祭事の行われました。神社としての起源は非常に古く西暦460(?)年頃にまで遡るようです。中国の霊帝4代目である阿知使主(あちのおみ)とその子、都加使主(つかのおみ)が日本に帰化し様々な文化的貢献をします。両人は天皇に願い出て、織物・衣服の技術向上のため呉の国に渡り、ついに裁縫と機織の師を得て帰国します。その功績により阿知使主と都加使主は、猪名の津(川辺郡から池田・豊中にかけて)を領地として与えられて、同地で技術教育にあたったのでした。
 これら関係者の存命中、多くの技術者を育成し日本の技術発展に貢献したとして天皇は、勅願により神社を建立しました。正式名称(後世に命名)の「穴織宮居伊太神社」の「穴織」とは、その時に来日し機織の指導に当たった「穴織・呉織の師」に由来します。
 その後、860年(貞観2)清和天皇勅定をもって社殿の修復、源満仲公造営再興して1325年(正中2)、後醍醐天皇によって「穴織宮居伊太神社」の宸筆を受け命名されます。1339年(暦応2)足利尊氏により更に拡張は続き、社殿の改築と寺領の寄付があります。
 その後の天正年間(1573〜1592)、荒木摂津守村重の謀反により、池田のめぼしい社寺はことごとく戦火に遭い、伊太神社も難を逃れる事はできず全焼します。1604年(慶長9)内大臣豊臣秀頼公は、片桐且元を普請奉行に命じて社殿を再建、造営します。現在もその当時の建物が戦災や難に遭わずその勇姿をとどめています。


池田市綾羽2-4-5 (MAP B-3)
TEL:072-751-4652

料金:無料
休館日:なし
開館時間:特にありません

電車・バス:阪急宝塚線「池田駅」下車、阪急バス「池田職安前」下車、徒歩10分。駅から徒歩は、15分くらいです。
マイカー:阪神高速池田線、川西・小花出口下りる。池田市内の国道176号線を桜通りに乗り換えて五月山方面へ。五月山体育館から西へスグ。
※道が狭く車両は入れません。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。




写真:大広寺大広寺
Daiko temple

 大広寺は、1395年(応永2)池田筑後守充正(みつまさ)により創建されて後、天巌(てんがん)禅師を招いたのがその開基とされています。戦国時代には、池田氏の家臣から身を興した荒木摂津守村重が摂津地方一円を支配下に置いた時、その中心地を伊丹(現兵庫県伊丹市)にした事から、池田のめぼしい寺院は村重の命令で同地に移動させられました。そのため大広寺も暫く池田を離れていました。
 江戸時代、泰平の世が到来し池田の繁栄によって大広寺は再び元の地へ戻ります。1694年(元禄7)第16世の雪峰は檀徒と協力して堂宇を再建・増築して隷寺3寺院を招致します。大広寺は以後も拡大を続け、その数は最終的に大小40余院あったと記録されています。塔中には陽春寺・泉福寺・明悟院があり、内二院は他へ移り現在は陽春寺のみ残します。
 その陽春寺は、大平洋戦争の空襲に遭い消失(後に再建)します。陽春寺とはほとんど離れていないにも関わらず難を逃れた大広寺は、現在も池田氏縁の貴重な遺物を多く残しています。十代池田城主知正と十一代目最後の城主三九郎の墓塔、十二代光重が三九郎の菩提を弔う為に奉納した梵鐘(池田市最古の梵鐘)が残されています。また、六代城主の遺徳を称えて、大広寺玄関の天井には切腹の時に敷かれていた板が張られています。
 その他、阪急電鉄の創始者である小林一三夫妻の墓や連歌師牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)・田中桐江(とうこう)の墓塔もあります。また、珍しいところではハインリヒ・フォン・シーボルト妻、細原はながシーボルト一族冥福の為に建てたという塔碑があります。興味のある方は是非ご覧になって下さい。大広寺は牡丹でも有名で季節(4月下旬頃)には多くの人で賑わいます。


池田市綾羽2-5-16 (MAP B-3)
TEL:072-751-3433

料金:無料 (牡丹祭 大人:400円)
休館日:なし
開館時間:特にないようですので、常識の範囲でお願いします
※建築施設内への立ち入りの際は了解を得て下さい。


電車・バス:阪急宝塚線「池田駅」下車、阪急バス「大広寺前」下車。
マイカー:阪神高速池田線、川西・小花出口下りる。池田市内の国道176号線を桜通りに乗り換えて五月山方面へ。五月山体育館から北へスグ。
※駐車場がありませんので御注意下さい。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。




写真:法園寺法園寺
Hoon temple

創立は不祥だそうです。しかし、再建の記録は1538年(天文7)、僧勝誉と檀徒が協力して復興したとあるのでその始まりはかなり古いと思います。また、残っている記録によると、池田城主筑後守(摂津池田家では代々”筑後守”を名乗ることが多かったが、多分信正(久宗、三朗五郎、孫八郎)を指すであろうこの筑後守は誤りかと思われます。)の後妻、阿波の三好意三公(この人物は調査中。意三とも宗三とも記録されている。)の娘を葬った所で、池田城主の本願により建立したと言われています。冥福を祈るため、現在の法園寺内に阿波堂(あわんどう)を建てたが、いつの頃か移転されて今は上池田(池田中学校前)にあります。今の法園寺はその後に建てられました。
 また、別の縁起によると、池田久宗(信正)が、後室の為に極楽寺を立てたが、前の説と同じくその後上池田に移転され、その跡地に法園寺が建てられたとあります。その極楽寺というのも残っていたらしいですが、廃れてしまって、阿波堂だけが今も残っています。阿波は、四国の阿波で三好家の事と妻のことを考えて阿波堂と名を付けたのでしょう。
 余談ですが、幕末、大塩平八郎の弟子であった山田屋大助を首謀者(同心も含む)とした能勢騒動(1837年)が起こりますが、鎮圧されて山田屋は自決します。この騒動は1,500〜2,000人にも及ぶ騒動で、大塩の乱に強く影響を受けたものでした。大規模な乱でもありましたが、天皇に直接窮状を訴えるという勤王的な発想もあったようです。しかし、乱は鎮圧されて、山田屋の遺体は大坂に運ばれて調べられる途中この法園寺に運ばれて夜を明かします。夜の搬送は、遺体が奪われる可能性があったかららしいです。また、この近く(北側)の坂は、有名な落語の「池田の猪買い」に出てくる「めんも坂」です。兎に角ここは、色んな歴史のあるお寺なのです。


池田市建石町3 (MAP B-4)

料金:
なし(境内はでは節度を)
休館日:なし
開館時間:特にありません

電車・バス:阪急宝塚線「池田駅」下車、徒歩10分(バスの路線がありません)。阪急池田文庫の南側です。
マイカー:池田市内の国道176号線から楠通り(池田市役所の前の道)を北へ。突き当たりを右折れスグです。
※付近に駐車場はありません。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。




写真:仏日寺仏日寺
Hutsunitsi temple

 仏日寺は大阪府豊中市に居住した1万石の大名で青木氏の菩提寺として創建されました。青木氏は創設以来転封がなく幕末まで続いたために、仏日寺では青木氏歴代の墓塔を全て見る事ができます。青木氏は黄檗宗に理解を寄せ、1659年(万治2)隠元禅師の仏日寺招来を機会として同寺を開山。開基は二代藩主の重兼(しげかね)公で、当時本堂の他29宇を有する大伽藍で、北摂有数の禅刹だったそうです。
 その後、1896年(明治29)の暴風雨で堂塔伽藍等に大損害を受けたり、1946年(昭和21)に農地改革で寺領の全てを失い窮地に立たされながらも現在に至ります。また、先の阪神・淡路大震災では本堂や青木氏累代の墓塔に大きな被害を受けて数年がかりで復旧しました。
 小高い丘陵に築かれた同寺は静かで毎月第二日曜日の6時からは、早朝座禅会も行われています。


池田市畑1-18-17  仏日寺(MAP C-3)
TEL:072-753-2567 FAX:072-753-2567

料金:無料
休館日:なし
開館時間:特にないようですので、常識の範囲でお願いします
※青木家累代の参拝は立ち入りの際に了解を得て下さい。

電車・バス:阪急宝塚線「池田駅」下車、阪急バス「石澄(いしずみ)」下車。
マイカー:阪神高速池田線、川西・小花出口下りる。池田市内の国道176号線、または国道171号線を畑・宮ノ前線に乗り換えて池田市東畑方面へ。池田・箕面線を超えたあたりの「石澄バス停」附近にあります。
※駐車場がありませんので御注意下さい。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。

仏日寺のHP




写真:池田歴史民俗資料館池田市立歴史民俗資料館
Local histry museum of Ikeda

 池田市立歴史民俗資料館は、1980年(昭和55)に開設されて、池田市域から出土した資料が展示されています。市内から出土した、1万数千年前のものと思われる出土品や、鎌倉時代から室町時代にかけて存在したと思われる池田城関係の出土品など、様々な時代の遺物が一同に見る事ができます。また、池田に去来し居を構えた文人墨客の美術資料なども多く収蔵されています。
 その他、元禄時代に隆盛を極めた池田酒に関する用具、商家の看板などの珍しい展示物もあります。この資料館では、旧石器時代から近代にわたる池田の歴史的特徴が、分りやすく展示されています。連続的な流れとして全体像を掴むにはちょうどいいのではないでしょうか。また、年に4回、池田の考古・歴史・民具・美術などを独特の視点で捉えた企画展も行われていますので、ご自分の興味のあるテーマの時は足を運ばれてはいかがですか。
 資料館は小高い所にあって、五月丘古墳のすぐ脇に建っています。見晴しもよく、さらに、入場は無料ですから結構穴場でもあったりします。来館の際は、休館日にご注意下さい。休館日は月・火曜日、国民の祝日・月末・年末年始と展示替の期間中です。


池田市五月丘1-10-12 (MAP B-3)
TEL:072-751-3019

料金:無料
休館日:月・火曜日、国民の祝日・月末・年末年始と展示替の期間中
開館時間:午前9時〜午後5時
※無料駐車場有り


電車・バス:阪急宝塚線「池田駅」下車、阪急バス「五月丘」下車、南へスグ。または、「池田駅」から徒歩で20分くらい。
マイカー:阪神高速池田線、川西・小花出口下りる。池田市内国道176号線から五月丘中央線五月丘団地方面へ。辻ヶ池公園を北へスグ。
※資料館と市立図書館が駐車場を共有しているため、休日や週末は空が殆どなく込み合います。週末や休日は御注意下さい。




写真:池田市八坂神社八坂神社
Yasaka shrine

 1579年(天正7)織田 信長の伊丹城主・荒木 村重討伐の際、兵火にかかり社殿や古記録を消失したので神社の由来など、詳しい事がわかっていません。一説では、「牛頭(ごず)天王素戔鳴尊神社」と称し、神田地域の産土神として「神の宮」と呼ばれて信仰されていましたが、後の978年(天元元)には円融天皇も祀ったものとなったということです。「八坂神社」という統一的な名前になるのは、1878年(明治11)の王政一新の時からで、それまでは「素戔鳴尊神社」などと呼んだりして定まりませんでした。いずれにしても、かなり古くにその起源を遡らなくてはならないようです。
 戦国時代の荒木村重謀反の時には、この地域は池田城とも関係する「神田館」もあったことから社殿など、ことごとく消失します。しかしその後、1610年(慶長10)に旧領主である摂津池田氏の末裔、池田備後守光重(みつしげ)が、嫡子(第二子:他紋丸)の成人祝いとして本殿を再建し寄進します。(光重は豊臣 秀頼に使え、最後の池田城主?)桃山時代の建築様式の特徴をよく表している古建造物として、1971年(昭和46)に国の重要文化財に指定されました。
 また、毎年10月22日には、「神田祭」という秋祭りが行われます。額灯と幟の宮入りが行われ、氏子達が伊勢音頭を歌いながら幟は午後2時頃に、額灯は夕刻にそれぞれ宮入りするという静かな祭りです。
 また、この時、元禄(宝暦?)年間に制作された「木地透彫着色二十四孝透塀欄間」も公開されます。これは、古来中国の孝子24人の親孝行の様子を桧の版木に透かし彫りにして彩色してあるものです。池田市重要文化財に指定されています。八坂神社は早苗の森の中にあって普段は静かな佇まいの神社です。広い境内を散歩する人あり、ベンチに腰掛けておしゃべりを楽しむ人ありと憩いの場になっています。


池田市神田4-7-1 (MAP B-5)
TEL:072-751-3790

料金:無料
休館日:なし
開館時間:特にないようですので、常識の範囲でお願いします
※数台の駐車スペース有り


電車・バス:阪急宝塚線「池田駅」下車、阪急バス「早苗の森」下車、西へスグ。徒歩5分。または、「池田駅」から徒歩で15分。
マイカー:阪神高速池田線、川西・小花出口下りる。国道176号線から池田・伊丹線へ。早苗の森交差点を西へスグ。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。




写真:弁慶の泉伝承・弁慶の泉
Benkei's spring remains

 池田市豊島南二丁目(旧豊島郡今在家村)、旧国道171号線沿いの交番脇に「弁慶の泉」があります。1735年(亨保20)の「摂津誌」に「俗伝弁慶止渇干此」との記載もあります。
 この泉の近くに旧西国街道が走り、その昔、源 頼朝に追われた義経一行が戦いで渇いた咽をうるおしたといわれている所です。伝承では、1185年(文治元)義経等が西国街道から尼崎へ行く途中、追手の多田蔵人行綱・豊島冠者(池田衆)と戦った後、疲れを癒すために飲んだのがこの泉の水といわれています。水は古来神聖なものという信仰があり、そこから英雄や偉人と結び付ける発想は多くあります。架空のものもありますが、記念として残すための手段としても使われています。この、弁慶の泉も謎につつまれた部分がまだ多くあるようです。しかし、当時の交通事情からして全く否定もできないようです。
 時が経つに連れてその言い伝えも忘れられかけていました。近年まで、地元農家の農業用水としてポンプ小屋を建てて細々と利用されていたり、子供の水遊び場となっていました。
 都市化されると水量は減って荒れ果てていましたが、地元の有志の熱心な活動により、1979年(昭和54)10月、池田市の史跡として生まれ変わりました。史跡にするにあたって泉を調べたところ、最大で日に千トンの湧水が可能な事がわかりました。泉は完全には枯れていなかったのです。現在も史跡だけでなく、実用的にも大きな恩恵を受けています。弁慶の泉は現在小さな公園として整備されて、憩いの場となっています。また、毎年5月上旬には「弁慶祭り」も行われています。


池田市豊島南二丁目(MAP C-5)


電車・バス:阪急宝塚線「石橋駅」下車、阪急バス「北今在家」下車、徒歩5分。中国自動車道高架の南側にあります。
マイカー:阪神高速池田線、池田出口下りる。大阪中央環状線宝塚方面へ。豊島南交差点を左折スグ。
※ここは駐車場があまりません。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。




写真:正光寺正光寺
Syoko temple

 正光寺は、870年(貞観12)にその起源があり、1597年(慶長2)開基と伝えられています。その後、奥田藤兵衛という人が寛永年間(1624-1644年)に本願寺准如法主の直弟となって中興となった寺です。同寺は、大阪府豊中市にあった麻田藩(一万石:外様大名)の領地内にあった事から、同藩と縁深くいくつかの逸話が残されています。中でも中納言石の伝説は有名です。その石は本堂の前にあります。平安時代、この辺りに薬草園があって、「中納言菅原峰嗣」が薬草園の見回りの際、休憩用に使っていた石があったそうです。彼は、平安時代の天皇の待医や薬草頭などをつとめた人でした。それを知ってか知らずか、それからの後の江戸時代、麻田の藩主が散策中にこの石を見つけて同寺に運び込んだところ、毎晩悪夢に悩まされて遂に正光寺近くの辻に捨てたそうです。
 時は下って、人々に忘れ去られようとしかけたその石を、1924年(大正14)村の衆が念仏を唱えながら境内に再び運び込んだものが現在でもあるのだそうです。近年では既に廃れてしまった中納言祭が毎年行われていたそうです。今となっては地元でもこの石の存在を知る人も少なくなっているようですが、今もその石は正光寺の境内にひっそりと残されています。
 また、正光寺周辺は旧中之島村と呼ばれ、西国街道筋にあたり石橋村と共に古くから開けていたようです。1999年の大河ドラマでも忠臣蔵が取り上げられていますが、「仮名手本忠臣蔵」五段目の一節にもこの辺りは登場しています。赤穂浪人の不破数右エ衛門が鎧櫃を背に大槍をかかえて、麦畑が広がる西国街道を石橋から伊丹方面へ駆けて行く姿が描写されています。池田には赤穂浪士なんて全く無縁なようでも探してみればあるものですね。


池田市住吉一丁目(MAP C-5)

料金:無料
休館日:なし
開館時間:特に一般公開はしていません
※建築施設内への立ち入りの際は了解を得て下さい。


電車・バス:阪急宝塚線「石橋駅」下車。阪急バス「中之島」下車、徒歩5分。駅から徒歩は、15分くらいです。
マイカー:阪神高速池田線、池田出口下りる。宮ノ前東畑線を北へ。住吉交差点東側です。
※駐車場がなく、道路は大変狭く通行は困難です。
※詳しくは、マピオンのサイトを参照下さい。所在地は上記を入力。




参考連絡先:

池田市観光協会HP
大阪府池田市栄町1-1 財団法人 いけだ市民文化振興財団内
TEL:072-750-3333 FAX:072-750-3330


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