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ページタイトル:近世池田村

さて、その近世の池田の町並みを見ると、村は豊臣時代を経て徳川幕府の直轄に入り、酒の町・市場の町として発展します。
 近世池田村の町並みを知る資料としては、1697年(元禄10)の「池田村絵図」と1746年(延享3)の「池田村絵図」の2面があります。いずれも大きな地図で、前者には各家々の間口と奥行を間尺で示し、各戸主の名前と職業も記されています。後者は各町毎に境界の線を引き、各家屋・田畑の坪数と年貢高及び持主等記されています。
 また、池田村の主要道路については、本町筋・中之町筋・新町筋等でこれらに結びつく巡礼街道と妙見街道とがあります。この巡礼街道は西国第23番勝尾寺から山中を箕面に出て、山裾を西へ新稲・秦野村を過ぎ、池田村の横岡を南下して上池田村・建石・本町を経て西之口町の猪名川岸に至ります。これは表道で、裏道は池田の横岡から城跡丘陵の切り通し道を下り、北山之口町に入り中之町を横切り柳屋町を経て西之口の猪名川岸に至ります。この方が近道でした。

 元禄の村絵図には橋が無く渡し舟でしたが、延享の村絵図では仮の巡礼橋が架けられ、対岸の小花村に渡り、一路西へ第24番中山寺へ辿る道が描かれています。大水で川止めの時は、巡礼や旅人は西之口の旅宿に滞在していました。しかし、待望の大きな巡礼橋が1815年(文化12)3月に出来て、人々は大いに喜びました。
 また妙見街道は、大坂方面から来た人はまず池田村の上池田に入り、建石町を経て本町四つ辻の高札場を北へ米屋町・中之町を過ぎ、小坂前町の穴織宮の石段下を西へ北新町に出て、妙見山へ北進します。

 当時の町並みについては、1696年(元禄9)池田の坂上稲丸が上梓した「俳諧呉服絹」(大阪府立中之島図書館蔵)の挿絵に見る事が出来ます。板屋根・藁屋根・瓦屋根、または板屋根の上に石を幾つか点々と置いた家等何れも平屋建の家が並んで、池田名物3種の酒・炭・鞦(しりがい)を売っている家も多かったと思われます。
 同じ時期の家として、本葺きの丸瓦屋根で軒の低い中二階建で、虫籠窓は大分少なくなったとはいえ、今も西之口町・南・元・北の3新町・小坂前町・中之町・米屋町・東西の本町等に少々残っています。代表家屋は、元禄の村絵図に見る中之町問屋小兵衛の稲束家・柳屋町の酒造家山本屋坂上元智旧宅の豊島家等です。

 池田村の戸数は安永(1772〜1780)頃の文書によると2,180軒でその内商人359人、職人130人、稼人1,219人、百姓116人、医者・山伏35人、後家321人と記されています。また近世の池田村は五株(西池田村・中池田村・上池田村・下池田村・池田町)とに別れていて、それぞれを以下に紹介します。
 まず西池田村には田中町・林口町・槻木町・荒木町から成り、元禄の村絵図には荒木町は田畑地とあり、宝暦の村絵図に御蔵があります。これは年貢米を収める郷蔵です。
 次に上池田村には、上池田町と立石町があって宇保村はこれに属していました。大坂方面から池田に来た人は、辻ヶ池の東岸を北へ曲がると上池田から中心市街に向かう事になっていました。
 次に中池田村は北新町・元新町・南新町(新材木町)・米屋町・柳屋町・米山之口町から成っていた地域です。また、北新町に「剣先」という場所があり、最近までなじみの場所でした。ここから北へ曲がると北新町へ出ます。剣先は小坂前町からの道に挟まれて尖っているので、剣先と呼ばれています。北新町を北へ行くと、穴織宮裏山の谷から流れて来る細い清滝川が道を横切って、猪名川に注いでいました。
 元新町は元禄の村絵図では中新町となっています。元新町にも細い杉谷川が池田城址の北側を流れて来て、猪名川に注いでいました。この川口の中橋付近を「唐船が渕」と呼んでいます。南新町はこの町名で元禄の村絵図にも記され、延享の村絵図には新材木町と改めてあります。池田市場は扱う品物により市場が異なり、他町で市立は許されませんでした。しかし、東本町の竹木市を南新町の者が、猪名川端に材木を置く地の利をもって材木市を営みましたが、東本町の訴えで代官に差し止められ(寛永18巳年10月18日文書)、更に1682年(天和2)・1684年(貞享元)にも南新町は訴えられながらも、元禄以後遂に許された喜びに、町名を新材木町と改め、1871年(明治4)南新町に組み入れられました。米屋町では長きに渡り山本屋坂上一族の酒屋が栄えていました。
 次に下池田村は中之町・小坂前町・大西町・西之口町・甲加谷町から構成されています。中之町は米屋町へかけて青物市場問屋が24軒並んでいました(元禄15年9月文書)。中之町北続きの小坂前町には女郎がいました。大西町は延享の村絵図に西垣内とあります。これは弘誓寺の山号大西山に因んだ名です。元禄と延享の村絵図にある大西町北側の御蔵屋敷は、年貢米の蔵でした。巡礼道の巡礼橋が川止めの時の旅宿に渋谷・豊島屋等が橋の近くに在りました。大工職人が多く住んでいた甲加谷町は東本町の北裏の町で、東端にある狭い坂をドンドン坂と呼んでいました。
 最後に池田町は東本町・西本町・寺内町・西内田町・東内田町から成ります。東本町の坂は急な石段で、大坂方面へ行く荷牛・荷馬は通れないために、石段の際から右手の荒木町へ少し下り、直ぐ左へ曲って法園寺下を登る狭い坂がありました。牛馬が通っていたので牛追坂と呼ばれていました。池田市場の内、中之町・米屋町の青物市場で、東本町は竹木市、本町四つ辻の高札場付近は魚棚、西本町は炭市でした。1697年(文禄10)の「酒造米高帳」に記入の酒屋38軒の内、その多くは東西の本町に集中していました。寺内町は本養寺があるので本養寺垣内と言われました。

※写真をクリックして下さい→

写真:
旧本町筋

写真:
旧中之町筋

写真:
旧新町筋

写真:
旧巡礼道

写真:
旧西之口町の旧家

写真:
旧山ノ口町の旧家

写真:
呉服橋(旧巡礼橋)

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旧甲ケ谷町の旧家

写真:
虫籠窓とツシ

写真:
稲束家

写真:
豊島家

写真:
剣先

写真:
ドンドン坂


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