摂津池田氏
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 池田氏の出自は未だ謎の部分が多くはっきりしていないのですが、一説には楠木正行(まさつら)の遺腹の子を摂津国の住人であった池田氏が貰い受け、その後池田の地で勢力を持つようになったという説や、上野国(こうずけのくに)那波郡池田郷の出身者が摂津国池田で定着したという説も有ります。諸説定まらずその出自についていまのところ、確証に至る資料が少なく判断し難いようです。これからの研究に期待したいと思います。


<平安時代末期頃>

池田氏の起源の一説(池田町史)には、池田氏の祖は遠く源家の長者に遡り、紀長谷雄より、維実、維望、維貞に及び奉貞に至り初めて豊島冠者を唱えました。そしてこの池田蔵人紀奉貞という人物(流れでは、その前もそうですが)が、池田城主の祖にあたるようだとあります。
 この池田蔵人奉貞を豊島冠者と呼んで旧豊島村西市場地域に豪壮な濠を廻らした邸宅を構えて居住していたようです。豊島冠者については、池田市豊島南にある「弁慶の泉」の由来にも書かれています。
 1185年(元暦2)3月24日、長門国壇の浦の合戦で平家が滅んだ頃から源頼朝と弟義経の関係が急に悪くなり、次第に追い詰められた義経は挙兵するに至ります。義経は西海下向を計画し、尼崎方面から船を使うため西国街道を西へ向かいますが、その前途を摂津源氏多田蔵人大夫行綱、豊島冠者等が遮ります。義経はこれを駆け敗って脱出しましたが、義経の軍勢も多くが離散してしまい、残りも僅かになってしまったとあります。この時、戦いで疲れた義経の喉を潤したのが「弁慶の泉」の湧水であったという事です。
 これらは、当時の幕府の記録である「吾妻鏡」を元にした伝承のようです。
 このように、池田氏の前身と考えられる豪族は最初、古くから開けていた池田市南部の西国街道沿いに居て、威勢を張っていたようです。


<鎌倉時代の頃>

時を経て、流通の発達や様々な必要に駆られて池田氏は、次第にその地から北へ移っていったのではないかと考えられていますが、詳しい事はまだ判っていません。いわゆる国人・国衆(村落単位ではなく、郡単位などに影響力を持つ有力者)に成長していく豪族(土豪)は、大きく分けて2種類あるようです。
 タイプ(1)としては、鎌倉時代頃に、その土地の所有者から管理の役目でやってきた「地頭」のような者とか、中央政権などから土地をもらってやってきた御家人などがあります。ですので、このタイプの武士はその経緯から、領民に対して支配的な態度で終始臨んでいたようです。
 タイプ(2)としては、その土地の有力者が次第に成長したもので、このタイプは領民に対して支配的ではなく、どちらかというと地域の代弁者的なところがあったようです。

 池田氏の場合はどちらかというと、これまたはっきりしないのですが、タイプ(1)から次第に成長し、タイプ(2)になった感じがあるように思います。言い伝え的なところでタイプ(1)の可能性はあるのですが、史料としてはタイプ(2)のものが残っています。池田の町を守る武力集団としての存在も考えられています。
 池田氏は、平安時代の終わり頃、豊島冠者として池田市域南部の西国街道沿いに居たものが、鎌倉時代頃から次第に力をつけてきたと考えられます。それは池田市南部に残る池田氏の歴史遺物からも推定されます。常福寺、釈迦院、五社神社などに鎌倉時代の文化財が残されています。
 最近の調査によると、史料上で池田氏が登場するもので最も古いものは「勝尾寺文書」収載(1284年6月8日付け)の「右近将監 藤原政長和与状」のようです。池田右近将監政長が勝尾寺領の沙汰申し渡しの中で登場しています。その後池田氏は、北摂に関する文書に度々登場し、文献では1430年頃から急速に勢力を拡大しているようです。


<室町時代頃>

池田家では中興の祖とでも言える人物で池田充正(みつまさ)は、領地支配と金融業で成功し、一国人でありながら守護大名に匹敵する経済基盤を確立しました。その繁栄ぶりは中央にまで聞こえ、貴族からも「富貴栄華の家」「富貴無双」などと言わせた程でした。

 それを伺い知る事のできる事件がありますので簡単に紹介しますと、「大乗院寺社雑事記」の1461年(寛正2)5月24日の項目に、摂津原田荘(原田郷)で境目に打った杭が抜き捨てられる事件があったと記してあります。犯人は田能大和(尼崎市田能付近の豪族)という人物ではあるが、その背後の首謀者は池田氏であることが判明し、この事件は金銭的な貸借による事が知られています。その発端は、この事件より遡る事2年、この時、数年に及ぶ大旱魃の最中で、年貢である神供料を納める事ができないという所が多発しました。そんな中でも義務を果たそうと延雅(えんが)という人物(記述された文に「大東正預子也」という注釈があり、この事から北郷牧務職の大東氏だと考えられています)が池田氏より百貫文を借り入れます。その大東氏は借り入れの時に自分の原田荘を担保にしていました。ところがそれを払えなかったばかりに、池田氏の私領となってしまったのです。この文だけ読めば、何やら極悪非道な池田氏という感じはしますが、旱魃でも一定の神供料を納める事を義務化していた寺社勢力というのもあり、ちょうど制度の疲弊と新しい価値感の台頭する時代だったのではないでしょうか?個人的にはそんな風に読み取っています。
 ちなみにこの時にやりとりされた一連の古文書には「池田ハ管領細川被管也」と記されていて、中央との関係が伺われます。この細川とは勝元です。
 池田氏はそういった時流に乗り、支配地を拡大していきます。池田氏は垂水牧の内、いわゆる西牧(萱野郷、原田郷、桜井郷、榎坂郷。更にその中でも、萱野郷・原田郷を北郷、桜井・榎坂郷を南郷と呼んでいた)を主にその支配地のとしていきました。この地域には、後々池田氏の支族が土着したり、有力者とのつながりを持ったりという縁で連携していたりもするようです。


<戦国時代初期の頃>

原田郷の事件後、間もなく、細川勝元(かつもと)・山名宗全(そうぜん)との争いに端を発する1467年からの応仁の乱は、畿内をはじめ日本各地に火種が飛び火して日本国内は大混乱となります。摂津地域でも例に漏れず池田氏は、戦いに参加しています。記録によると「騎馬十二騎に野武士千人を率いて細川方として堂々の入京を果たした」と有ります。(単純にこの動員人数から、江戸時代の石高で換算すると約四万石に相当します)
 しかし、威風を誇った池田氏に試練が訪れます。1469年(文明元)7月26日の西軍大内氏からの攻撃で充正(政)の守る池田城は落城します。しかし同年10月の大内氏撤退により勢力を回復します。また、1478年(文明10)には桜井郷の代官職をも入手します。この時、今も池田にある大広寺を文明年間(1469〜1487)に伽藍諸堂を再建して菩提寺とします。この充正の時代で基礎の財政基盤と地域の有力者として地域の名誉も手に入れたようでした。彼は、1482年(文明14)55才で没します。
 また、充正の弟恒元が尾張に住み、後に織田信長の乳兄弟として重用される池田恒興となったと伝わりますが定かではありません。

 11年続いた争乱は、ひとまず小康状態でしたが、また社会が乱れます。乱の間に衰退した山名氏に代って今度は、細川一族のウチゲバが始まります。管領細川勝元の嫡子政元が実権を握っていましたが、実子がなく養子を迎えていました。その相続争いに巻き込まれて養子の澄之一派に政元は殺害されます。ここから血で血を洗う乱がまた摂津を巻き込みます。
 一国人の池田氏も戦乱に巻き込まれていきますが、池田氏はなぜか自身のこだわりを貫く行動をとります。どうみても小数という場合でも敢てそれを固辞し、意思表示を鮮明にしているきらいがあるように思います。通年で歴史をみると、何度かそういう事があります。自立心、または独自性の強い家風だったのかもしれません。

 室町時代は、その始まりから終わりまで、戦いばかりの時代でしたが、京都に近い摂津(池田)は度々巻き添えとなっていたのは、少し触れました。それは色々な要因がありますが、京都という都は堀もなければ城壁もないという都市で、攻め易く、守り難く、既得権が強いという特徴がありました。このため、京都を攻める常套は、その周辺で軍勢を仕立てて一気に攻めるという手法が代々採られていました。
 故に摂津は要地で、そこに土着している国人などは、常にその帰趨を決しなければいけない立場にありました。お負けに、池田は都への通過点ともなっていて、関係しないわけにいかない運命になっていました。
 しかし、悪い面ばかりではなく、摂津国人池田氏は中央政権に近い事、発達した流通・経済を利用し、その地位を着々と築いていきました。戦国時代の一国人のしたたかさかも知れません。


<戦国時代中期頃>

永正年間から日本全土が統一され戦国時代が終わる頃まで、何度も池田は戦乱に巻き込まれますが、その発端となった1508年(永正5)5月、他の多くの摂津国人が細川高国(たかくに)の側についたにも関わらず、池田家は細川澄元(すみもと)側に付き抗戦しました。
 5月初旬から高国が差し向けた、細川尹賢の大軍に城を包囲され攻撃されます。池田城内からも討って出て激しい戦いが行われました。10日、池田一族の池田遠江守正盛投降、次いで外堀(恵那堀)を埋められたため、城主池田筑後守貞正は降伏の決意を固めました。貞正は事前に妻と息子などを数名の家臣と供に落ち延びさせた後、城を自焼して大広寺に駆け込み、そこで、貞正以下一族二十余人が自刃、足軽七十余人も後を追いました。
 ちなみにその貞正切腹の時の敷板と伝わる「血天井」が大広寺に伝わっています。
 その後、池田城は投降した池田遠江守一族が中心となって、高国方として重要な役割を担いますが、落ち延びた貞正系の池田家とは一線を画していたようです。
 高国方はこの後、10年間、比較的安定した政権を維持しますが、澄元方の多い西摂津では度々戦いをしており、池田城を本営として各地に出陣していました。また、高国方池田家もそれに従軍し、転戦していたようです。

 そんな中、落ち延びていた貞正の息子は三郎五郎と名乗り、有馬郡の下田中城に身を隠して、澄元方池田家として、来るべき時を待っていました。
 間もなく池田氏が属する澄元以下は攻勢に転じ、下田中城の三郎五郎(久宗)が同時に挙兵します。次第に澄元方が有利となり、対する総大将細川高国は池田城あたり迄後退して抗戦しますが、澄元方の攻撃に耐えられず壊走してしまいます。この時三郎五郎本人の活躍もあって再びかつての居城、池田城を回復します。
 また更に、高国本人の死(大物崩れ)もあって高国政権は崩壊します。城を回復した後も高国残党などからの攻撃が数度ありましたが、三郎五郎はその都度撃退します。
 その一連の功績で足利家将軍より「直勤御家人」の待遇を受けます。ここに摂津池田氏は、名実共に畿内近隣と中央に知られた存在となります。


<細川晴元政権時代>
細川澄元の嫡子六郎晴元が、父の遺志を継いで細川高国打倒の活動を続けます。
 六郎晴元は、阿波・讃岐・淡路の守護や国人などの応援を得て、一旦は高国を京都から追い落とす勢いを得ます。しかし、右京大夫高国も手を尽して反撃体制を整えます。右京大夫高国は、播磨国人や大名を味方につけ、東へ進撃。摂津国へ入り池田城をも攻めます。また、山城国吉祥院城も攻め、京都へ侵攻するかの勢いを見せました。
 六郎晴元は、右京大夫高国へ決戦を挑みます。六郎晴元衆三好筑前守元長を中心とする一万五千程の軍勢は、摂津国天王寺へ本営を置いていた右京大夫高国を攻め、壊滅的な打撃を与えて敗走させました。また、この時に六郎晴元は、播磨守護赤松政村(後の晴政)を味方につけて、播磨国から右京大夫高国方の背後を圧迫させていました。
 この天王寺の合戦では、六郎晴元方が大勝し、右京大夫高国は逃亡します。享禄4(1531)年6月8日、摂津国尼崎で右京大夫高国は捕らえられ、即日、同地の広徳寺で切腹となりました。三好山城守一秀の介錯だったと伝わっています。
 歴史学的には、この時を以って「大物崩れ」といわれる高国政権崩壊となったとされています。これを機に六郎晴元は、その勢いを増し、活動を活発にしていきます。
 しかし、間もなく六郎晴元を支えた主力である筑前守元長とも不和になり、六郎晴元は、筑前守元長をその同盟者である河内守護畠山義英と共に攻め滅ぼします。そしてこの時、六郎晴元は、軍事力の不足を補うため、本願寺宗に協力を依頼し、六郎晴元勢は軍事的優位で以って反勢力を討伐したのでした。
 しかし、更に、予想外の事態が発生しました。本願寺宗徒が、自らの力に目覚め、六郎晴元の思惑から外れた行動をし始めたために、これらを弾圧しようとします。このため六郎晴元は、法華宗へ協力を依頼します。摂津・河内・和泉・大和・山城・近江国などは大混乱となり、毎日どこかで戦闘が行われていました。
 天文2(1533)年2月には、六郎晴元自身が淡路国へ避難する程に混戦状態となります。この事態に、摂津国人池田筑後守信正も六郎晴元方として、他の国人衆と連携しながら、苦しい戦いを続けざるを得ない状態でした。
 しかし、京都を中心とした法華宗徒が善戦し、次第に本願寺宗徒勢を圧倒するようになり、遂に本願寺方は、六郎晴元へ和睦を願い出ます。
 この仲介を阿波守護代の三好長慶(筑前守元長嫡子)が果たし、両者を和解させています。この事は、六郎晴元方へ三好一族が復帰するキッカケとなったようです。以後、長慶は、六郎晴元に重用されていきます。
 六郎晴元の伸長を阻む本願寺宗を法華宗の協力を得て武力鎮圧したところで、今度は、法華宗徒も六郎晴元の思惑を超えた行動をし始めるようになります。六郎晴元は、法華宗の弾圧を始めます。
 六郎晴元は、各地の守護や各国人衆といった武家を中心として、法華宗と一部の抗戦派本願寺宗徒を制圧にかかり、天文5(1536)年9月にはそのメドが立って帰京しました。続いて翌年8月、六郎晴元は「右京大夫」を朝廷と幕府から認められて、管領となり、正式な政権を始動させる事となります。
 摂津池田衆は、この間、終始細川晴元方として行動しており、晴元からも信任を得て重用されていました。天文8(1539)年6月、池田家当主池田筑後守信正は、幕府から毛氈鞍覆・白笠袋使用の許可を得、家格を上げる事にもなりました。
 管領職に就き、細川晴元政権が誕生したとはいえ、戦争の無い年は無く、静かで安定した政治が行われたとは言い難い日々が続きます。天文18(1549)年に細川晴元は京都を追われ、政権が崩壊しますが、その年迄、常にどこかで戦争を行っていました。
 六郎晴元は、管領という将軍の執政の立場であり、将軍を政治・軍事的に補佐する立場にありましたが、その目的から離れて、管領職に就く事そのもので争いを繰り返していました。これを巡って周囲の者達も離合集散し、その利益を測るという、正に戦国時代の中心となって、日本全国を争いの世にしてしまったのです。さて、管領職に就いてからも右京大夫晴元の周辺では不和や争いが絶えませんでした。
 天文8年閏6月、右京大夫晴元側近でもある三好長慶が武装蜂起し、同年7月に和解。同じく晴元側近の木沢左京亮長政が、天文10(1541)年9月に河内守護代遊佐河内守長教などと協働して武装蜂起し、翌年3月に武力鎮圧。天文11(1542)年12月、反晴元方として細川次郎氏綱(細川尹賢の子で、同名高国の養子)が、木沢長政残党や紀伊国根来寺宗徒・大和国民筒井順慶などと共に武装蜂起。これは、河内守護畠山稙長の協力も得るに至り、大きな反晴元勢力となって、晴元政権を圧迫していきました。
 その間にも、右京大夫晴元側近同士の不和があり、三好政長と同名長慶が、同族でありながら互いに非分を主張して事態の収拾がつかなくなっていました。しかし、この時長慶の言い分に大儀があり、政長は隠居(その後宗三を名乗った)する事として家督をその嫡子新三郎政勝に譲り、一応の社会的責任行動はとりましたが、問題解決とはなりませんでした。結局、右京大夫晴元が、政長・政勝父子に対して公平に欠く贔屓を続けた事で、周辺の不満が治まらず、武力衝突に至って、これが晴元政権の崩壊となってしまうのでした。
 そんな中、摂津国人池田筑後守信正は、その混乱にも沈まず晴元に重用され、側近的な扱いを受けていました。天文10年11月、反晴元方木沢長政勢に池田城が囲まれた時、晴元はこれを救援すべく、積極的に行動しています。また、天文13(1544)年11月28日に筑後守信正は、晴元と共に京都で連歌会に出座したりしています。
 軍事的にも晴元方として、常に出陣しており、天文14(1545)年5月24日には千五百名の兵を率いて山城国南部の山科方面へ向けて、京都から出陣しています。これは、晴元側近衆の三好長慶と同数で、同名政長よりも多く、また他の国人衆と比べても遥かに多い数の兵を動員できる程の実力を持つまでになっていました。
 摂津の有力国人ではありましたが、天文13年には単独で守護格にも迫る程の軍事動員力をも可能な経済力を持っていたと考えられます。
 池田筑後守信正は、拡大した資産を守ろうとしたのか、晴元と不和になったようで、天文15(1546)年9月に細川晴元方となる事を表明します。この頃、次郎氏綱は、和泉・河内・大和・紀伊国などの方面で大きな勢力になっていました。筑後守信正は、この動きに希望を繋いだようです。
 しかし、晴元は、これまで重用してきた筑後持守信正のこの行動を許さず、直ぐさま討伐の軍勢を差し向けます。
 天文15年9月10・16日に池田城を攻撃します。更に翌年2月、大規模な軍勢動員を行い、同月20日、池田城の支城的役割をも持つと考えられる原田城を落とします。更に、6月25日に芥川山城が落ちた事から、筑後守信正は姻戚関係にある三好宗三政長を通じて、右京大夫晴元へ降伏を申し入れました。
 また、7月21日、河内国舎利寺付近の合戦で晴元は、細川次郎氏綱勢に大勝し、決定的な優位を得ます。右京大夫晴元は、氏綱勢に圧され気味ではありましたが、一時的には再び勢いを得ました。
 そんな状況での晴元は、冷静で公正な判断を欠き、当時の社会通年を大きく越えた裁定を下し、謀反を企てた咎として、筑後守信正を切腹させます。
 この事は、晴元・氏綱の和睦が成立して直後の事であり、且つ、筑後守信正は出家と等しい入道となって恭順していたにも関わらず、最も重い罪を科したという結果に、社会的な疑問が投げかけられました。これは、晴元の政治的な能力を問われる象徴的な出来事となってしまいました。
 また、摂津国池田家と姻戚関係でもあった三好宗三政長が、池田家を擁護するどころか、その財産を私有化しようとしていた事について、問題視されていましたが、これを容認した晴元は、更に社会的信用を失い、天文17(1548)年8月12日に三好長慶は、晴元など関係者へ直訴を行う事態となりました。
 晴元はこれを治める事ができず、同年10月、三好長慶など多くの大小名や国人が、氏綱方となり、晴元から離れます。
 そして同月28日、遂に軍事衝突となり、三好長慶など氏綱勢は、晴元側近の三好宗三政長居城である、摂津国東成郡榎並城を攻囲します。更に翌(1549)年6月24日には、三好長慶が三好政長を国江口で討滅した事から、晴元は総崩れとなって本営の三宅城から敗走。間もなく、晴元は京都からも逃走します。
 同年7月9日、細川次郎氏綱を擁した三好長慶は京都へ入り、氏綱政権樹立の第一歩を支えたのでした。
 その後晴元は実権を失い、京都周辺の丹波・近江国などへ潜伏しながら、氏綱・三好長慶の打倒を目論みますが、勝てず、永禄6(1563)年3月に没します。
 時代は晴元から嫡子昭元へ移りますが、「管領職」を巡って常に派閥の離合集散と派閥間の闘争が続けられていました。


<天文の宗教戦争>
1531年(享録4)6月、前項の通り政権の中心的人物であった細川高国の死「大物崩れ」により、その幕を閉じました。これを破ったのは、争った澄元の子晴元で、更にその軍の中核を成していたのは三好元長(三好長慶の父)でした。
 阿波の強力な軍を利用し細川高国を倒した細川晴元なのですが、その後、晴元を勝利に導いた元長とも敵対関係となっていきます。そこに登場してくるのが、河内北半国守護代の木沢長政です。長政は晴元の被官となって元長と対立を深めます。
 そして、強兵で成る元長ら阿波勢は、遂に1532年(享禄5)5月19日、木沢長政らを飯盛山城に囲みます。これを援護するため、細川晴元は劣勢を挽回すべく本願寺門徒の動員を図って成功します。これがいわゆる「天文法華の乱」といわれ、摂津池田家もこの乱世に飲み込まれていきます。
 同年6月5日、石山御坊から証如光教は、摂津・河内・和泉の門徒に檄を飛ばして細川晴元に加担するよう伝えます。その数3万人。大軍勢は、忽ち三好元長勢を蹴散らして、敗走させます。
 三好勢の中心人物である、三好元長は堺に、畠山義尭は高屋城に逃げていましたが、本願寺宗徒に滅ぼされています。この頃、本願寺勢の数は更に増え、十万とも二十万ともいわれるまでになり、当時としては信じられない、前代未聞の動員人数でした。
 ちなみに三好元長の子、長慶とその母はこの時、阿波に非難していて事なきを得ています。
 しかしこの頃同時に、本願寺宗徒の一揆は暴走を始めてしまい、7月に大和での一向一揆の蜂起があり、8月5日には摂津でも池田城を囲みます。池田城はこの時晴元方ですが、この8月までにはこれまでとは逆で、晴元勢と本願寺宗徒は敵対関係となっていました。この時、池田家の総領は久宗(三郎五郎)で、1508年5月に自刃した貞正の子が池田に返り咲いていました。池田はこの当時、カナメ的存在であり、摂河泉三国の中心的都市のひとつともなっていました。
 そして一揆方は、伊丹平野の農民が主たる構成員だったと推定されています。中でも尼崎や塚口あたりには道場と呼ばれる拠点が多く集まり、この付近が大きな力を発揮していたことから、そういった方面からの参加者が多かったようです。
 その内に状況が変化し、堅固な池田城よりも堺への攻撃という重要度が増したために、和睦が成立します。

 そして、更に状況は変化してまいた。細川晴元が、この一向宗徒に対するために、今度は法華衆や在地勢力を糾合し、今度は次第に本願寺勢力を圧倒し始めます。これを、中心的に指揮したのは、茨木長隆(一向宗徒でもある)・木沢長政などの武将でした。彼らは次第にこの強力な一向宗勢を追い、その本拠地である、京都山科や大坂石山本願寺を攻めるに至ります。
 しかし、一向勢は侮れず、一旦は治まりかけた火が再び燃え上がったりして、晴元方池田勢は長い間悩まされます。時には、犬猿の中である猪名川対岸の伊丹氏と組んで、一向宗の拠点を焼き討ちしたり、細川晴元が直々に池田城に入り、西摂津の戦況を見守ったりしています。

 そんな中、混沌とした状況に終止符を打つべく、時代の人物が登場します。三好長慶です。彼は、後に五畿内を含め近隣九ヶ国を治める大守となります。
 1533年(天文2)6月20日に本願寺と幕府の調停役を果たします。この時長慶は12才。これで、畿内政治は新たな時代を迎えます。といっても戦う相手が変わっただけで、相変わらず戦乱の世であるには違いがいありません。
 この後、細川家内訌に阿波の三好家が加担する事により、じわりじわりとその主体性が逆転し、三好政権の誕生となります。この間、有力者がそれぞれ跡目を称して、細川家縁者を推します。晴元の対抗として細川氏綱を擁立し、これを巡って三好家も割れるという更なる乱世を生み出してています。
 池田家も、その時々に旗色を明らかにすることを余儀無くされ、いや応なく、その渦中に突き落とされるカタチになります。
 しかし、そこは富裕で知られた摂津有数の国人、池田家ですから、試練の度に成長し、時代を追う毎に強固な地位を築いていきます。


<細川氏綱政権時代>
細川次郎氏綱は、管領細川右京大夫晴元の失策も手伝って、その有力被官であった三好筑前守長慶を味方に得ました。右京大夫晴元の失策とは、「細川晴元政権時代」の項をご覧頂くとして、次郎氏綱は、筑前守長慶を味方とした事で、大きな勢いを得ます。
 1549(天文18)年6月24日、摂津国江口にて、側近である三好宗三政長など多数を失う敗北を喫し、右京大夫晴元方は総崩れとなります。間もなく晴元は京都からも落ち延び、以後は亡命政権となりました。
 さて、次郎氏綱は、晴元から見て、前管領の細川右京大夫高国の子(高国弟細川尹賢の子)で、父高国が就いていた管領職の奪還を目指していました。この動きに、細川晴元へ対抗する勢力が加担、擁立して、地域勢力となっていました。
 それは、次郎氏綱が決起した1542(天文11)年12月13日に遡ります。この頃は、取るに足りない非常に小さな動きでしたが、次郎氏綱は次第に支持を得るようになり、時を経て、成長していきました。
 当初、近畿地域の南部(和泉・紀伊国の一部)での活動に限られていましたが、河内守護家畠山氏やその守護代である遊佐氏の協力も得られるようになり、現職の管領細川晴元を圧迫する程の勢力となりました。
 以下、「細川晴元政権時代」の項と重複する部分もありますが、簡単にその経緯を見てみます。
 1542(天文11)12月の挙兵後、次郎氏綱は、和泉国槙尾寺を拠点として活動し、攻勢のため、度々五畿内地域に出兵します。
 1544(天文13)年2月頃からは、河内守護畠山尾張守稙長の協力を得る事となり、勢いを増します。更に同年7月には大和国民の鷹山主殿助弘頼が、尾張守稙長の被官となり、大和国でも影響力が拡がっていました。
 同年8月3日、右京大夫晴元方三好越前守政長・同名孫次郎長慶などの城を攻撃のため、摂津国江口へ出陣する程になっていました。翌年4月頃になると、丹波国や山城国南部でも次郎氏綱勢が活動し始め、徐々に京都に近づいていました。
 しかし、1545(天文14)年5月15日、畠山稙長が死亡し、一時的に次郎氏綱は求心力を失いました。右京大夫晴元は、この機会を逃さず攻勢に出ます。晴元は先ず、山城国南部の次郎氏綱勢を鎮圧します。この時池田筑後守信正も晴元方として従軍していました。
 不安定だった晴元政権に希望の光が差し込んだように見えたのですが、公平に欠く政治が目立ち始めており、陰りが見え始めていた頃でもありました。
 1546(天文15)9月3日、右京大夫晴元から池田信正など国人衆が離れる事を表明します。また、将軍義晴さえも次郎氏綱へ加担する姿勢を示していました。しかし、後の時代を知る者から見れば、これは時期が早すぎ、状況が不安定でした。そして晴元は、直ちにこれらの鎮圧にあたり、大挙して池田城などを攻撃します。
 1547(天文16)年2月20日、この頃には池田城の支城的役割を持ち、協働体制にもあったらしい摂津国豊嶋郡原田城が、晴元方に落されます。続いて3月22日に次郎氏綱方となった三宅城が落され、6月25日、芥川山城が落ちます。これを受けて同日、池田信正が晴元に降伏。この信正の降伏を以って摂津国内の次郎氏綱方はほぼ鎮圧されていました。
 同年7月21日、河内国舎利寺付近で、晴元・氏綱方の決戦が行われ、三好長慶などの活躍で晴元方が大勝して、雌雄が決まりました。更に晴元方は河内国内へ侵攻し、氏綱勢を追討を行いました。これで氏綱勢は、再び後退してしまいます。
 しかし、軍事的には優勢でも、肝心の政治が安定せず、晴元政権は体制の維持に明らかな綻びが生じていました。池田信正(宗田)の切腹下知とその処置を巡って、もはや回復できない程に信用を失い、晴元は、有力被官だった三好長慶や各国の国人衆の離反を招きました。
 1548(天文17)年10月から、次郎氏綱は再び勢いを得て、晴元方と大規模な交戦を始めました。翌年6月24日、次郎氏綱方三好長慶勢が、右京大夫晴元重臣の三好(宗三)政長を摂津国江口で討ち、晴元方は総崩れとなりました。晴元は僅かな供を連れて京都へ戻りますが、間もなく、近江国へ落ち延びます。
 同年7月4日、次郎氏綱は三好長慶を伴って入京を果たし、氏綱政権の始動となりました。しかしながら、五畿内とその周辺には晴元方へ加担する有力者も少なく無く、それから数年間は、それらの鎮圧に追われます。
 この間、三好長慶は時の政権を支える有力者に成長し、その行動が、政権の命脈に直結する程になっていました。
 摂津池田家もまた、そのミニチュア版のような関係を長慶との間に持ち、長慶の政治を左右するとはいわないまでも、無視できない関係にまで持ち込める大きな勢力となっていました。
 地域の有力者など国人衆は、管領の座を争う者同士に加担する際、より高く評価をしてくれる側につき、その中で様々な権利を獲得していったようです。
 そんな大きな枠の中で、拡大する池田家の権益のより多くの獲得と、その保証・保護ができる人物が、一族の惣(総)領として推され、選出されるといった形態だったようです。これは、池田家が武家としての自立過程で、そのように変化していったようです。
 信正の死後、池田家代表者は数年間不在のようでしたが、次第に家中の意見もまとまり、池田(右)兵衛尉長正に決まったようです。
 ちなみに史料上では、筑後守信正(宗田)の後継を「太松」とした、と見えますが、彼が幼少であったために(右)兵衛尉長正は、この後見も兼ねての暫定措置だったのかもしれません。しかし、(右)兵衛尉長正も「筑後守」の座に就き、池田家の正式な惣領となっていますので、彼は家中からその力量を認められたようです。
 さて、中央政治に目を向けると、1552(天文21)3月11日、細川氏綱は念願の「右京大夫」を叙任され、管領職の座に就き、正式に氏綱政権が発足します。
 しかし、この頃には三好長慶の実力が増し、もはや彼を抜きにしては政権の維持ができない重要人物となっていました。また、社会的身分上はその当時の秩序を越える事はできないという矛盾を感じながらも、実質上は、長慶の裁量を無視する事のできない政治体制となっていました。長慶の力量により、氏綱政権が維持されていたという側面が強かったようです。
 そんな氏綱政権は、右京大夫晴元方勢力のレジスタンス活動への対応に追われる日々が続きます。晴元方は、丹波・近江国方面からの侵入に加え、要人の暗殺や調略といった工作、将軍義輝の取り込みといった政治活動を行って、氏綱政権の崩壊を狙っていました。
 こういった状況の中で、筑前守長慶は「一所懸命」に役目を務めた結果として、更なる実力と利益を得て、実質上の統治者のようになっていたようです。五畿内などの国人や有力者は、政治体制が変化しつつあった事もあり、筑前守長慶に直接従うようになります。
 1563(永禄6)12月20日、右京大夫氏綱は、歴史上では最後の管領となって没し、また、彼の死によって室町幕府の伝統的な摂津守護制度は一時的に廃絶したと考えられています。
 ちょっと脱線しますが、この年は、3月1日に細川晴元が病没し、2月に筑前守長正が、8月25日に三好筑前守義興(長慶嫡子)が没しています。疫病などが流行していたのかもしれませんが、晴元と氏綱は奇しくも同じ年に死亡しています。
 その間、1558(永禄元)年から1562(永禄5)年までは、三好長慶の全盛時代となり、それまでの地道な活動を一気に開花させました。また、長慶は徐々に管領職の身分を超えるべく、直に将軍義輝と接触するようになり、右京大夫氏綱の立場は中に浮いたカタチとし、形骸化させてしまいました。
 氏綱が中央政治に登場する頃には、前時代とは違う政治権力闘争となっており、氏綱は政権を樹立したとはいえ、経緯を見るとその初めから、実力者に成長した三好長慶の影響下にあったように見えます。



<三好長慶政権時代>
室町将軍を補佐する管領職には「三管領」といわれる世襲が常態化し、これには細川・畠山・斯波の三家が就いていました。この内で特に細川家が、日常的に将軍と直接関わっていました。
 大永年間頃から細川高国と同名晴元が、管領の座を巡って争い、晴元に同じ出身国の三好筑前守元長が支援しました。筑前守元長の個人的な才能もあり、晴元方を優位に導きました。しかし、間もなく晴元と元長が不和となり、元長は滅ぼされてしまいます。そんな経緯を持ちながらも三好長慶(筑前守元長嫡子)は、再び晴元の下で活躍し、手柄を立てて行きます。
 世が天文から弘治・永禄と移る中で、管領の座も細川晴元から同名氏綱へと変わりました。その30年程の間に三好長慶は、多くの人々が認める有能な人物に成長していきました。彼は京都を中心とした、九カ国を治めるまでになります。
 三好長慶は、細川晴元の下で活動している間に様々な経験を積んで成長し、晴元政権内では有力な武将となります。そして、晴元の次に管領の座に就いた細川氏綱の代に至っては、実質上、長慶がその政治生命を左右する存在となっていました。
 1548(天文17)年8月頃に三好(筑前守)長慶は、遂に細川右京大夫晴元へ失政を糾す諫言を行います。しかし、これは(も)聞き入れられる事がなかった事から、筑前守長慶は、右京大夫晴元との決別を覚悟し、永年不和の続いた同族の三好(宗三)政長・同名右衛門大夫政勝父子との精算も実行に移しました。
 同年10月、筑前守長慶などを中心として、摂津・河内・山城・丹波・播磨国など多数の国人・有力者が、細川次郎氏綱方へ加担する事を明らかにします。これにより一転、右京大夫晴元は守勢に立たされます。
 1549(天文18)年6月24日、筑前守長慶は、右京大夫晴元の側近である三好(宗三)政長を初めとした多数を摂津国江口で討ち、晴元政権もこれによりあっけなく崩壊となってしまいました。また、河内守護家の一族で、同族内で対立し、右京大夫晴元へ加担したりしていた畠山在氏・同名尚誠父子などの勢力も中枢の崩壊で求心力を失って、弱体化の道を辿る事となったようです。
 その後もしばらく右京大夫晴元方の抵抗が各所で続きましたが、晴元へ加担していた将軍義輝との和睦を契機に、ある程度沈静化させる事に成功して、1552(天文21)年3月11日、氏綱は遂に「右京大夫」を叙任されて、管領職の座に就きます。この日を以って、正式に氏綱政権を始動させる事となりました。
 しかし、筑前守長慶の功労が多大にのぼるにも関わらず、伝統的権威がその社会的身分を正当評価できない矛盾を痛感した長慶は、その最上位である将軍に直接関わる事を企図します。
 筑前守長慶は、その事を視野に入れて、着実に政治環境を調えます。1560(永禄3)1月18日に長慶は、将軍義輝から御相伴衆という地位を得て、「修理大夫」を叙任。長慶は、管領職と並ぶ社会的地位を得ます。
 これ以後長慶は、将軍に直結する立場として行動でき、且つ、大きな権限も得られるようになった事から、これまでとは違って、幕府方として更に広範囲で深く行動できるようになっていました。
 前年5月、河内守護家の内訌に修理大夫長慶は介入し、同国守護職の座にある畠山尾張守高政を救援するとの名目で軍事行動を起こします。
 修理大夫長慶は、幕府方として、その守護制度の秩序保持させるよう考えていたようです。同年8月までには河内守護畠山高政に背いた同守護代安見美作守宗房を降伏させ、河内国の守護所である高屋城へ畠山高政を復帰させました。
 この5月から8月までの修理大夫長慶勢の軍事行動に摂津国池田衆も従軍しており、安見宗房方の大将格遊佐三郎左衛門尉某を初め、名だたる武将21名を討つ活躍をしています。
 しかし、翌(1560)年5月に、今度は河内守護畠山高政が、敵対していたはずの安見宗房と和解して協力体制を調え、河内国内への幕府・三好長慶などの権力浸透を拒絶する動きをとり始めます。
 これに対して、再び幕府が河内国討伐を行う事となりました。修理大夫長慶は、本国である阿波国からも増援を求め、6月下旬頃から河内国の軍事制圧に乗り出します。
 この時もまた、4ヶ月程で討伐を終え、河内守護所である高屋城を開城させ、畠山高政・安見宗房などの代表的人物を追放してしまいます。同年11月には修理大夫長慶が、河内国飯盛山城へ本拠を移し、直接支配を行うべく対策を行いました。また、この時、畠山高政や安見宗房と繋がる大和国内へも同時に対応を行い、信貴山城や万歳城、檜ノ牧城などを落しました。
 これは、河内国内の政治が大和国内にも密接に繋がっていたために、同時にこれを断って完全に制圧しようとの目的があったのですが、結果的に修理大夫長慶の勢力が、大和国内へもその影響力を強める事となりました。
 また、この時も摂津国池田衆は修理大夫長慶方として従軍しており、8月14日に河内国堀溝(現大阪府寝屋川市堀溝)方面で交戦を行っています。その結果、畠山高政衆安見宗房勢五十名程が戦死して、宗房勢は飯盛山城へ後退しました。
 それから、何かと池田衆とライバル的な存在である摂津国伊丹の国人伊丹衆は、修理大夫長慶の重臣である松永久秀に所属して行動していたようです。そのため、長慶勢の大和国侵攻を任された松永久秀に従って伊丹衆も大和国へ入っており、その後の久秀の大和国定着にも浅からず関係していたようです。河内・大和国境近くにある「傍示」(ほうじ)という集落の殆ど全戸が「伊丹姓」という村が今も残るのは、その事にも無縁では無いのだろうと個人的に考えています。
 さて、三好長慶には義興(義長)という実子が一人居り、1560(永禄3)年1月18日に「筑前守」を任官し、正式な相続人である事を内外に知らしめました。この頃を以って長慶は後見人的立場となり、筑前守義興を支えつつ、更なる「家」の発展を目のあたりにして、安らかな老後を送る予定だったようですが、ここからまさかの試練が待ち受けていました。
 1561(永禄4)年1月24日、筑前守義興は朝廷から従四位下に叙任され、また、将軍義輝へは御相伴衆へ加えられた事の礼も述べています。更に翌月1日、将軍義輝は、義興へ「桐紋」の使用を許しています。
 将軍義輝は軍事力を、三好長慶・義興は権威を。両者互いに補完する利益の一致があり、急速に接近していったようです。
 ちなみにこの時、祝賀の席が設けられ、京都の筑前守義興邸で将軍義輝を迎えて行われました。その警備に池田衆も動員され、池田八郎三郎勝正は、接待役として記録に現れています。
 しかし、「鬼十河」と呼ばれ、讃岐国内を束ねていた修理大夫長慶の弟、十河民部大輔一存が4