見出し:池田氏関係の図録
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写真:河内三箇城趾碑三箇城趾
The ruins of the Sanga castle

大東市にある三箇(さんが)城跡碑です。三箇城の所在については諸説あってまだ特定できないようです。
 この碑は現在、大東市深野北の三箇菅原神社の前にありますが、同市の三箇6丁目から40年くらい前(現在は2001年)に移されてきたそうです。

三箇6丁目は地形が高く、堀の代わりの近隣の川が決壊しても水没しない地域で、かつ一説の河内飯盛山城の真西に出城を築いたということからも6丁目の方々はここにあったのだと主張されています。近年この辺りも宅地化が進み、その面影はありません。強いていうなら、古い家が残っている事とくねくねした古い道が残っているくらいです。

さて、池田氏と大東市の三箇城が何の関係かとお思いかも知れませんが、深いかどうかはこれからの勉強ですが、浅からずこの地と池田氏とは関係を持っています。それは何かと訪ねたら...、この地は先にも触れました、飯盛山城の出城で、かつ、この三箇城主が熱心なキリシタンだった事から、初期の伴天連布教の一大拠点となっていたところでした。付近には教会が立ち並び、それらは畿内最大のもので、信徒は3千人を数えたといいます。
 宣教師のアルメイダらの本国への報告書では、15年に渡りミサが続けられ、三箇伯耆守頼照が河内キリシタンの中心となっていたようです。
 その後、有名な高山右近や和田惟政、内藤ジョアンの登場で、伴天連布教の拠点が河内・摂津国から京都に移っていきますが、河内国飯盛山城が畿内を治める中心(摂津国芥川山城と二元対応)となったことから、その出城である三箇も大変な賑わいだったようです。

記録には、既に入信していた結城左衛門尉(河内岡山城主で、妻は池田教正娘)の誘いで、その友人らは半信半疑で修道士ロレンソの福音に耳を傾けましたが、その弁説は爽やかで、集まった武士達の質問を悉く論破し、感服した三好被官73名は入信することになったとあります。
 その中には、三箇氏や池田丹後守教正がいました。お察しの通り池田姓を持つこの人物、摂津国人池田氏の一族です。
 それからこの三箇という名は、中世の昔にはこのあたり一帯が深野池という大きな池でした。そこに島が3つあった事から、三箇の名がついたようです。その島に三箇城(3つの島がそれぞれ城の機能を持つ要害だったと思われます)がありました。他にも、深野池の北部に岡山・砂、東部に北条・野崎、北部に清滝・竜間城(たつま)など出城を随所に配して、飯盛山城の守りのシステムを構築していました。囲碁と同じで相互補完関係を築き、深野池の重要な岸に城を配して橋頭堡としていたと思われます。

摂津の池田氏は摂津のリーダー的存在で、この三好長慶に属して転戦していましたので、この飯盛山城にも屋敷を持って常駐していたはずです。
 池田氏は、三好氏と婚姻による一族扱いを受けており、三好下野守とは親戚関係で、常に行動を共にしています。池田と三好は実は深い関係にありました。この先は今後勉強して発表していきたいと思います。お楽しみに。

ちなみに飯盛山に登ると、その麓は一望のもとに把握できるのは当然ですが、晴れていれば摂津池田、大山崎、神戸方面が大変良く見えます。

最後に、簡単ですがお忙しいところ色々親切にお話しをして下さった方々に感謝します。ありがとうございました。

2001年5月10日:記

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