見出し:池田氏関係の図録
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写真:有岡城女郎塚砦跡有岡城女郎塚砦跡
The ruins of the zyoro-tsuka fortress.

摂津池田家家臣から身を興した荒木摂津守村重に摂津地域が平定された後、池田城をたたんで伊丹城を改修して有岡城に居城を移しました。1574年(天正2)11月の事でした。この時池田城の資材も再利用されたと云われています。しかし、その4年後の1578年(天正6)10月21日、村重逆心の情報が信長の居る安土に達し、11月3日には村重が1万騎で有岡に篭城します。
 信長は始め、穏便に事を済ませようと村重をなだめますが、応じない事から強行措置に出ます。早速村重の討伐に取りかかり、まずは人的な切り崩しにかかり、11月9日に高槻城(大阪府高槻市)の高山右近、同24日には茨木(大阪府茨木市)の中川清秀が信長に降ります。更に翌月になって、大和田城(大阪市西淀川区)で主将の安部二右衛門が信長に降りました。信長はこれらを喜び、少なくない褒美を各々に与えています。
 安部二右衛門は摂津池田家の家臣出身で、村重が摂津の支配者となった事で、それに従っていました。ちなみに彼は、それ以後も織田家家臣として、各地に転戦している様子が記録からもわかります。また、堺の商人で茶人の津田宗久の茶会などにも参加していたようで、記録に残っています。その心得もあったようです。

 さて、この有岡城は荒木村重が伊丹城を改修し、惣構えという新しい築城概念を用いた事で、それまでの城の常識を超える防御力を持っていた事が知られています。国の指定する史跡です。
 ほぼ南北の一番長い部分で2キロ弱、東西800メートル程の縄張りで、巧みに地形を利用し、更にその要所に砦を設けていました。東西南北に数カ所設けていたようです。その内のひとつ女郎塚砦(上臈塚とも)の跡が伊丹シティホテル付近です。
 その当時この砦は、中西新八郎という武将が守備し、その西側1.5キロ程の所に対する滝川一益と攻防を続けていました。この中西新八郎も元池田家家臣だと考えられています。

 はじめ一気に城へ攻め掛かりますが、予想以上の被害に力攻めする事を信長も諦めます。攻め手は持久戦に持ち込みますが、落とすまでに9ヶ月かかっています。しかし、落城末期には内通者も続出し、残った者は次第に追い詰められました。
 この女郎塚砦を守っていた中西新八郎も織田方の武将滝川一益の誘いに乗り、寝返ります。「信長公記」の伊丹城謀反の事、1579年(天正6)11月15日の項に「滝川左近佐治新介を使仕り、中西新八郎を引き付け、中西才覚を持って、足軽大将の星野、山脇、隠岐、宮脇、謀反いたし、上臈塚へ滝川人数引き入れ、数多切り捨て候。取る物も取り敢えず、上を下へとなって、城中へ逃げ入り、親子兄弟を討たせ、泣きかなしむ計りなり。町をば居取にいたし、城と町との間に侍町あり。是れをば火を懸け、生か城になされたり。(後略)」とあって、その時の凄まじい戦いの様子がわかります。

 なお、有岡城合戦中と落城の時、多くの犠牲者が出ました。その殺された婦人達を祀った塚が、伊丹市内の墨染寺に「女郎塚」として残っています。


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