見出し:池田氏関係の図録
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写真:摂津国欠郡野田城跡野田城跡
The remains of the Noda castle

野田城跡は、現在の大阪市福島区玉川のあさひ銀行前あたりがその中心地だったと推定されています。今は写真のように石碑が建っています。中世の頃この辺りは、淀川・長柄川(中津川)が大阪湾に注ぐ河口の中間に位置する僅かな高台となっていました。実際、明治以降にも「城ノ内」「奥」「弓場」「堤」などの字が残っていて、城があった事の信憑性を物語るものだとされています。
 野田に城の原型が築かれたのは、1532年(享禄4・天文元)頃に浦上掃部がこの辺りに陣取り、砦のようなものを築いたのがその始まりだと考えられています。細川晴元・氏綱が争っていた頃の事です。この時代は、大変複雑な関係が悩みの種ですが、この頃、池田家は細川晴元に従い転戦していたようです。しかし、池田氏は遊佐長教らの諜略で氏綱方に付いたようです。間もなく、三好政長(池田家とは姻戚関係があったらしい)を頼り晴元方へ戻ります。

 さて、信長の畿内制圧以降、追い落とされた三好三人衆は本国阿波に戻り、その復活を虎視眈々と狙っていましたが、信長が義昭と不和になった間隔を衝いて畿内へ渡海する根回しを始めます。篭手始めは、池田家への諜略を図り、当主勝正を追放し三好派とする事に成功します。間もなく摂津兵庫津から阿波衆1500程が上陸したのを皮切りに、伊丹城を牽制した後、天満森に集結します。その後、野田・福島城に入りますが、8,000〜13,000程の勢力になったといいます。この数を収容できるのですから、規模的にはかなり大きなものだったと推測されています。この中には、三好三人衆を始めとして、美濃を追われた斉藤竜興らも加わっていました。
 なぜこの野田・福島近辺に三好衆は立てこもったかといいますと、この辺りは、西側は直ぐ海で、その西の先は尼崎の富港、東へは京都に通じる物流中継の拠点でもあったからです。おまけに、池田を押さえることで、経済的圧迫を狙ったものだと考えられています。物資の流れを押さえる作戦だったようです。また、この地域は、本願寺系の一向衆の地盤の強い土地でもありました。

 しかし、この事態を憂慮した信長は、すぐさま岐阜を発ち8/26に天王寺に入り、天満ガ森、渡辺、川口、神崎、津村、上難波、下難波、木津、今宮に陣を敷きました。
 同じ頃、池田勝正、和田惟政、三好義継、松永久秀らは、天満ガ森に集結し、将軍義昭の出馬も助けとなり次第に野田・福島城に迫りました。信長・義昭の軍勢2万は大砲と鉄砲3,000挺で、野田・福島に総攻撃をかけ、正に落ちるかと思われた時に、石山本願寺が参戦します。この後、10年にも及ぶ信長と一向衆の戦いがこの時始まります。
 結局、織田方不利となり、一時的に信長は囲みを解き、諸方面の鎮圧に勢力を注ぐ事になります。他方、三好方はゲリラ戦を展開し、信長に抵抗し続けます。
 池田勝正は、この後1年程記録に登場しませんが、やはり和田氏や細川氏などの織田・足利連合軍に従って働いていたと考えられます。

 野田・福島城は1570年(元亀元)頃、各々の思惑が交錯する最前線であり、池田勝正、知正にとっても目の放せない大変重要なところであったと思います。


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