見出し:池田氏関係の図録
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イメージ:宗教と武力天文畿内の大乱
The war of Tenbun include in religion.

時は1532年(享禄5年)5月、応仁の乱から続く戦国時代真最中、所は近畿の河内戦線。
 河内守護の畠山氏家臣木沢長政が主家と不仲になり、河内飯盛山城に篭って管領の細川晴元と誼を通じていました。戦況は木沢勢が無勢でしたが、晴元方は戦力不足を補うために一計を案じます。中世に再び勢力を伸長することになる宗教勢力に着目しました。
 細川晴元は、この戦いに本願寺門徒を率いて木沢方救援に駆け付け、見事に撃退しました。しかし、負けたとはいえ、これに対する畠山勢も法華衆徒の援助を得ていました。互いに、同じような事を企図し、政治・軍事的な利用をしていたのです。この後、日本史上でも記録的な泥沼の戦いを畿内を中心に展開し、大きな犠牲を出す事になります。
 更に後、勝った晴元は自ら引き入れた一向門徒衆の予想以上の力に今度は恐れを成すようになります。
 やがてそれは敵対するに至り、1535年(天文4)末まで摂津・河内などを中心として消耗戦を続けます。その後、更に晴元は、京都などの町衆を中心に信者の多い法華衆もまた弾圧し、宗教勢力全体を封じ込めようとします。
 これらの宗教勢力を巻き込んだ争いは1536年(天文5)には終結しますが、約5年間、畿内の人々はこれまで経験したことのない乱世(一般人までも直接争いに参加する)を身を以て知ったのでした。
 さて、そんな中にあって池田城と池田家は、時の政権(管領)である晴元の有力被官となって活躍しました。1533年(天文2)4月7日には、晴元自身が池田城に入り「晴元方本営」となっています。また、同年5月2日には、晴元勢として池田勢は天王寺に出陣したりしています。
 結果的にこの天文年間の宗教戦争は、晴元政権の有力被官である三好長慶などの活躍で、天文の大乱は終結しますがその後も政権争いなどで、畿内での戦闘は止む事がありませんでした。
 この頃、池田家は時には妥協し、時には強制しながらも家を保ったようです。時の政権・近隣国人、または本願寺などの宗教勢力に柔軟に対応したようで、様々な記録に摂津池田の事が現れます。
 池田一族中に一向門徒が居たようで、本願寺の日記に度々現れます。こういった繋がりは、池田家の存続にプラスになったのか、マイナスになったのかはわかりませんが、浅くない本願寺との繋がりは大変興味深い記録です。

「勝正を追え!」天文年間の年表もご参照下さい。

参考:天文法華の乱、本願寺日記上・下、戦国三好一族、三好長慶、大阪府史、
大阪市史、池田市史、日本城郭大系12、戦国歴代細川氏の研究など


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