見出し:池田氏関係の図録
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写真:高山ユスタ生誕地跡高山ユスタ生誕地跡
The Justa and Maria's birthplace in the Yono.

高山ユスタ生誕地の碑が大阪府豊能町余野に建てられています。ここは中世、余野氏が居城したといわれる余野城があったところでもあります。余野氏は在地の有力者で、周辺の野間氏や能勢氏とともに「能勢の三総領」と称されていた能勢一族衆でした。
 そんな余野氏が、摂津池田氏と高山右近とを結びつけていたとする記録が残っています。当時、日本に居たルイス・フロイスなどの宣教師によってその事が記録されており、有名な「日本史」の中に収録されています。第三十九章「沢・余野及び大和国十市城の人々の改宗について」の中で、高山マリアとユスタの事が詳しく記されています。
 「(前略)そこには比丘尼(ビクニ)が大勢いた。そのうちの幾人かは、クロダ殿(キリシタンとなっていた在地豪族と考えられているが、余野蔵人(くらんど・くろーど)の事と推定されている)の奥方(マリア)の親戚であった。奥方は、その家柄からいえば、まことに高貴な人で、池田殿(当主は勝正?)と称して、その国(摂津)の最大の殿の一人の正当な娘であった。池田殿の家は天下に高名であり、必要とあればいつでも五畿内きっての極めて優秀な、万全の装備の整った一万の軍隊を戦いに繰り出したものであった。(中略)
 この奥方(マリア。後に高山を名乗)の長女(ユスタ)と結婚(相手は当時13〜4才の高山右近殿)した。(中略)
 信長が荒木との戦いの結果、信長は池田の所領全部を他の諸侯に与え、この奥方の所領であった余野もその中にあった。その結果、彼女は追われて、困り果てたあまり高槻へ行った。(中略)
 右近殿と彼女(マリア)の娘ユスタとが、高槻城主となっていた時、この母親(マリア)はもう大人になっていた息子達と、彼女が二度目の夫(クロダ殿の弟)から得た小さな他の子供達に伴われて、高槻に来たのであった。(中略)
 彼女(マリア)を襲った病気によって、デウスが彼女を御許にひきとりたもうた時、彼女はやっと四十歳くらいであった。(中略)
 信長が殺されたのと同じ年に、その後継者である羽柴筑前殿が越前の国に攻め入って...。(中略)マリアの年長の息子二人と、その年にキリシタンとなっていた彼女の夫(クロダ殿の弟)も一緒に同じ戦争で死んだので、マリアには三人の娘が残るばかりになった。皆キリシタンで...。(後略)」とあって、その当時の様子を詳しく知る事ができます。
 また、この一連の高山マリア・ユスタに関する記述の中では、摂津池田氏の事についても興味深く記されています。

 また、1564年(永禄7)正月、余野城主余野氏が、縁戚にあたる高山飛騨守ダリオ(右近の父)の紹介を受けた日本人宣教師ロレンソを城内に招き、城内に人を集めて宗教論争が展開されました。余野には今もその城跡の梺に「オヤド」と呼ばれる小字があり、ここにかつては客を止める施設があったと考えられています。この場所でこの「宗教論争」が行われたと地元の研究家は考えておられます。そこに写真の碑が建てられています。
 そして論争を終え、これを期に「蔵人殿」は、妻・子・兄弟・家臣など53名とともに受洗したと記録されています。

追伸:1568年(永禄11)10月2日の織田信長による池田城総攻撃で、池田方として討死した足軽組頭「高山門内」は、この池田家と余野家から高山家に繋がる関連の人物だったのだろうかと少し気になっています。

参照:柳谷武夫著-日本史、富田好久監修-北摂の歴史など

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