見出し:池田氏関係の図録
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写真:摂津下田中城跡摂津下田中城跡
The remains of the Shimotanaka castle

1508年(永正5)4月、細川高国らの上洛に対して他の摂津武将に反し、池田城主貞正のみが抗して篭城しました。対する高国は、麾下の武将を遣わして5月上旬から攻撃を始め5月10日に城を落とし、城方の貞正以下の一族と主だった者は自刃しました。落城の時、貞正の子三郎五郎(後の久宗)は、有馬郡下田中(現兵庫県三田市)に逃れます。
 ちなみに池田市綾羽にある大広寺の「血天井」は、この時の貞正の遺徳を後世に伝えるべく残されたものだとされています。

 時は流れて、池田城落城から11年後の1519年(永正16)、細川澄元は阿波(徳島)に逃れて再起を図っていましたが、この年の秋、三郎五郎は、澄元が四国勢と播磨勢をもって上洛計画を立てているとの報に接します。三郎五郎は直ちに(下)田中城に篭城して上洛を助ける動きを見せてこれに呼応します。三郎五郎は、情報網も有効に使ったようで夜討ちの計画を事前に察知してこれを撃退。また、緒戦に勝利して澄元上洛に貢献しました。
 これにより見事に池田城に返り咲き、幕府からも直参(直接会える)の待遇である毛氈鞍覆・白傘袋の着用を許されます。

 この下田中城は、北畑重政の居城との推定がされています。大体のところは想像でき、その位置もある程度わかるようですが、現場はその遺構らしき郭のような跡はありません。
 三田市教育委員会による推定では、今は直線的に流れている武庫川は、当時大きく蛇行して南の山あいを流れ、今はその川跡の北側にある神明寺と神明神社のあたりが郭の跡だろうとの事です。その郭らしき跡というのは写真の中央附近の山が出っ張った所です。守りには良い場所だったろうと思います。
 また、その南の山は180メートル程高さがあり、そこには天満神社やいくつかの寺がありますが、この天満神社は下田中城と何らかの関係があるようだとの見解が示されています。

 なぜ摂津池田家が本拠地とは近いといえない、下田中地域に関連しているかというと、1507年(永正4)9月に池田家は有馬郡の南禅寺領である福嶋村に入部している事から、それに関連するものと考えられます。
 また、池田氏が細川澄元方についたのも、そういった自領の拡張と保護に対して有利だったからだと考えられます。

参考:日本城郭大系12、(新)三田市史、日本城郭全集10、
池田城跡発掘調査現地説明会資料(1987.9.15:大阪府教委
など


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