タイトル:幕末の池田関係の図録
写真:江戸時代の池田村年寄屋敷跡年寄屋敷跡
The remains of the area chief house

山田大助が起こした能勢騒動は、7月3日の木部村庄屋下村五右衛門からの書状により公に伝えられました。翌4日早朝、早速大坂奉行の捕手が池田に出張し池田に入ります。
 その時、上池田の大和屋友右衛門方に捕手が到着しました。幕末頃の大和屋は、東と西に別れていましたが、分家で元はひとつの家でした。山川氏がその総領でしたが、山川氏は元池田家家臣と言われる家柄です。

 さて、話しを戻しますと、山田屋大助の騒動発覚という一大事に大坂奉行が緊急措置をこうじて池田に出張してきた折り、池田村庄屋六兵衛、年寄久右衛門に人足60人を出すように命じています。今では、大和屋友右衛門方の場所はっきりしませんが、年寄とは池田地域の中ではこの上池田、栄本町にしかなく(元禄10年絵図では)幕末もやはりこの辺りに年寄屋敷があったと思います。写真は、上池田にあった年寄宅跡の様子ですが今では、ご覧のように新しい家に建替わっています。カギ型に曲がった道が当時の様子を語るのみです。
 上池田の大和屋友右衛門方からそのような命令が出、この付近に年寄屋敷があったとすると、やはり関係要人がこのあたりを行き来したのだと思います。

 写真の右下の石塔群は古くからこの場所にあったようです。中には1547年(天文16)、1557年(弘治元)という年号の刻まれた古い石塔があります。中世の池田氏に関係する遺物でしょうか?
 その向い側には阿波堂が、また写真中程の南に向かって延びた道は、呉羽荘と言われた宇保方面へ向かっている由緒ある古道です。ここは正に歴史の交差点でもあるのです。


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