見出し:池田城関係の図録
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写真:大阪府池田市今在家城跡摂津今在家城跡?
The remains of the Imazaike castle.

この城(砦)の聞き込みには苦労しました。今までで、一番苦労した聞き込みとなりました。これだけ聞いて答えが出ないというのは、本当はなかったのかもしれません。現地には都合2日通ったのですが、手がかりが聞けるような出合いがありませんでした。残念です。

 その筋の資料を見ると、1967年人物往来社刊の日本城郭全集9では、「北今在家の西南にある。(中略)池田城の支城として池田氏の一族が守備していた。」とあり、1981年新人物往来社刊の日本城郭大系第12巻には「城の内・城の淵という地名があるが遺構は全く残っていない。(中略)天正六年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳」とあって、確かに記述はあります。
 また、別の1994年池田輝海氏著で紀池田氏研究4には、孫引きになってしまいますが、今在家村とともに池田市南部にある「常福寺縁起」という記録に「(前略)天正六年十月有岡城主荒木村重が織田信長に背いた時、常福寺衆徒もこれに同心して篭城したしたという虚報があり、信長はこれに怒って翌七年十月の有岡落城の時に常福寺を焼き払い、豊島・能勢両郡にあった僧徒の食村七ヶ所及び荘田の悉くを没収した(後略)」とあるようです。
 長くなるので、他の記録は取上げませんが、この荒木村重の謀反は信長にとって大変ショックで不快なものだったらしく、摂津の神社仏閣は悉く焼かれ、森や薮まで焼いているようです。「汚い摂津人」というような表現もあったりして、兎に角相当な状況にあったようです。
 ちなみに常福寺は、その創建が大変古く、池田氏とも古くから関わりのあるお寺ですので、やはり上の記録の「虚報」というのは全く否定できないかもしれません。池田氏への義理を通したばっかりに...ということではないでしょうか。

 この紀池田氏研究4などは、日本城郭大系第12巻の表現に近いというか関連する記録と思いますが、やはり何らかの施設なり所縁の地域だと思います。西市場城跡の項でも取上げましたように、池田市南部は西国街道を走らせる重要な地域で、今在家城があったとすればそれを押さえていたのでしょう。今在家村は、西国街道を村の中に通す重要な立地になります。西市場城は、この今在家城の北隣でもしかすると連携していたのかもしれません。北の西市場城付近は地形的に少々高くなっています。川もあれば「!」となるのですが、当時流れていたかどうかわかりません。古地図では、流れているような感じもしますが...。
 私は、城はあったのではないかと今も思いますが、でもやはりお話しが聞けなかったと言う事は、城はなかった...どうなんでしょう。

 写真は江戸時代、この今在家村を治めていた一万石の外様大名「麻田藩」の庄屋を務めた橋川家跡の公園碑です。池田市の南部にあった10数ヶ村は麻田藩に属していました。麻田藩は大阪府内でも数少ない藩の一つで、陣屋を豊中市蛍池に構えていました。近隣の旧家や寺にはその門が移築され今も見る事ができます。なお、同藩の菩提寺は池田市の仏日寺です。
 この公園の前には江戸時代に建てられたと見られる、古い建物がありましたが、橋川家からの資料寄贈などがあった後、取り壊されて公園になったようです。詳しくは1988年(昭和63)池田市立歴史民俗資料館発行の「第29回常設展-目で見る池田の歴史-」をご覧下さい。

 今在家城とは関係ありませんが、手ぶらでは帰れず、思わず写してしまった写真です。ああ、残念!ご存知の方は、情報をお待ちしております!

マップはC-5


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