見出し:池田城関係の図録
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写真:大阪府池田市託明寺託明寺
The Takumyoji temple

1576年(天正4)1月11日、葛野(かどの)兵衛行光が石山合戦に数百名の門徒を率いて参加し、長柄表にて討死と池田市栄本町にある託明寺に伝わっています。この行光という人が、この寺の開基のようです。また、同寺から発行されている託明寺縁起には、証明するものはないがと前置きして、池田には古くから今の託明寺のある所に真言宗や真言律宗の小坊があったのだろうと推定されています。写真は現在の託明寺です。

 また、このお寺は代々葛野さんで、今も受け継がれています。それから江戸時代には同寺の分家筋で酒造家でもある葛野宜春斉という池田では特に知られた画家(詩も詠んだ)を輩出しました。彼は山城屋という池田では富裕の酒造家で、託明寺の葛野家から分かれた2つの分家がそれぞれ酒造を営んでいました。それぞれ葛野仁兵衛・次郎兵衛を代々襲名していました。宜春斉は次郎兵衛を名乗り、酒造業の傍ら絵や詩などの文芸に才を発揮していました。
 彼は、一時期池田に住んだ画家、呉春に接触したのがきっかけで円山応挙の画風に出会い、宜春斉独自の技法を確立していったようです。彼によって残された絵や詩は、池田文化・文学を探る上では欠く事のできない重要性を持っています。詳しくは池田市立民俗資料館でどうぞ。

 さて、兵衛行光の話題に戻りますが、彼が門徒数百名を率いて参加したとされる1576年1月の頃は、伊勢長島・越前の一向宗(本願寺衆)が織田勢(柴田勝家・前田利家などが主)により壊滅させられた事により、前年の1575年(天正4)10月より石山合戦も停戦中の時期でした。託明寺の寺伝をそのまま受取ればこの流れとは合致しません。
 但し、「石山合戦実録」の「其四 長柄軍 附大寄せ事」には同じ時期の同じような記録が見られます。事実を後年に記録として残した場合、書き間違いや勘違いなどで多少細かいところはずれていくことがよくあります。
 この時は、本願寺側から申し出された停戦案でしたので、特に本願寺側は厳重に守ったでしょうし、不審な動きをするとはあまり考え難い事です。他の記録を見れば、この停戦中は比較的静かだったようで、摂津の一職支配を許された荒木村重は「摂津守」となり、平穏な時期を利用して本願寺を囲みながらも様々な内政を行っていたようです。摂津守となった時期は、推定によると、1575年(天正3)9月とされています。

 託明寺伝の真偽の事を言いたいのではなく、ここで興味深いのは、自領(地域の主導者から見ると)内に強固な宗教勢力があり、敵対勢力に通じている事でした。地域を超えた「法」が特定地域内に有り、それが権利を持っている場合には、統治者というか責任者としては、大変頭を痛めただろうと思います。これは、長い間、池田氏や同時代に生きた地域の主導者にとって共通の悩みでもありました。戦国時代には、これが明確に敵か味方かと看做さなければいけないわけですから...。現代にも通ずる出来事だと思います。これが今は経済問題として地域社会に様々な波紋をなげかけています。


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