見出し:池田城関係の図録
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写真:池田炭(菊炭)池田炭(菊炭)
The Kikuzumi(like a chrysanthemum blossom) , one of the famous coal,.

今も昔も、池田の三大特産物のひとつとなっている「池田炭」は、茶道の分野では全国的ブランドにありながら、あまり一般には知られていないようです。茶の湯が発達した戦国時代末期には既に、その存在が大きかったようで、1595年(文禄4)、豊臣秀吉が久安寺の塔中常住院で「観月の茶会」を催した折り、池田炭を賞用したと伝わっています。池田炭は、今も池田市内の燃料屋(一部の)さんで購入することができます。

 さて、そんな由緒ある池田炭の興りは古く、元は摂津の山々から多く産出される鉱物の精錬のために使われていたようです。それが時代と共に洗練され、また製造技術の向上にもより、ブランド化したものが「池田炭」となりました。
 江戸時代には、一般の生活にも炭が用いられるようになりますが、池田炭を生産する周辺地域では、様々な産業があったことから、「工業用」としての炭が主たるものだったようです。「池田炭」は、その余力としての副産物だったのかもしれません。
 工業用といいますのは、やはり摂津の山々で採掘される鉱物の精錬用としての用途があり、近くには日本有数の「多田銅銀山」が存在しました。銅だけでも閉山するまでに6000トン以上の産出を誇りました。
 また、池田などの摂津の在郷町では、酒造が盛んに行われいて、これも火を使いますので、炭の需要があったのではないかと思います。以後、先にも述べましたように、時代が泰平を続けるにつれて一般にも普及をし始めて、需要は伸びて行きました。

 そんな事で、多くの街道を抱える池田では、古くから摂津などの奥郷の産物を集めて「市」が開かれており、その中の産物として「池田炭」も集散されるようになりました。実際の生産は、池田でしているわけではないのですが、池田で集散(炭問屋があり売買されていた)されていることから「池田炭」と呼ばれるようになったようです。別名は、その切り口の形状が菊のような形になっている事から「菊炭」と呼ばれていました。

 さて、そんな平和な「炭」がどうして「池田城」の項目に入っているのかというと、私はその池田炭が戦国時代では、軍事目的にも使用されていたのではないかと思っているからです。軍需が「池田炭」存続の一翼を担っていたのではないかと思っています。
 池田に残る地名、産物、町の様子などを調べると断片的に池田城に関連するものと思われるものが残っています。飛躍に過ぎるかもしれませんが「池田炭」もその中の一つだと思えます。
 稲垣史生氏が1962年(昭和37)に松波書房から発行された「戦国武家事典」の「篭城の実際 篭城心得」という項目、23番目にはこんな事が書かれています。「城に常に用意あるべきものは、一に炭薪、土に埋めておくべし。二に物を結ぶ〜(中略)五に鍛冶、大工を城下の町家に多く置くべし。」とあって、古文書では「炭」に関する事を重要事項として取り上げられています。
 ちなみに、(五)の大工は「甲ヶ谷」が池田ではあてはまりますし、鍛冶は近年まで実際に池田にいくつかあったようです。鍛冶匠についての伝説も残っています。池田では刃物屋さんも多いです。尤もこれは、植木との関連でしょうけど...。
 話しが逸れましたが、炭についてのもうひとつのこだわりは、戦国時代に革命的な登場をした「鉄砲」との関連です。摂津池田家は、京都や堺との繋がリが深く、早くから鉄砲の導入がされていたと推定しますが、その火薬の調合に「炭」を使います。
 火薬は、硝石70パーセント、炭の粉15パーセント、硫黄15パーセントの割合で調合します。これが黒色火薬と言われるものです。

 今の所これらのエピソードを結び付けて、池田に城があったころの名残りと勝手に考えています。池田氏は、摂津では随一の勢力と云われ、時の勢力に加担して様々な戦に参加していた頃、これらを大量に消費していたと思います。更に、多田の鉱山は天正の辺りから産出量が増えはじめたと見られていますので、そのあたりの兼ね合いも考えられます。個人的な推測なのですが、皆さんはどう思われますか?


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