見出し:池田城関係の図録
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写真:猪名川猪名川
The Ina river.

猪名川は、大阪府と兵庫県の境にもなっていて、大阪府から言えば西の端、兵庫県から言えば東の端になります。そのまま南に行けば大阪湾に注ぐのですが、途中様々な支流と合流して神崎川・淀川などと一緒になって海へ注ぎます。南の方へ行くと必ずしも大阪府と兵庫県の境とも言えなくなりますが、概ね基準になるような重要な川ではあります。
 しかし、川というのは身近ではありますが、こうやっていざひとつのものとして捉えようとすると、中々難しいものです。全長何十キロと続くものですが、その地域によって呼び名が違ったり、趣も変わるのでひとつの連続として捉え難いものになっていると思えます。ですから流域住民は、川を汚さないように繋がっていることを常に意識して、いつまでもきれいな川にしたいものです。

 太古の昔(と言わず結構最近まで)をみると、今のような地域の線引きではなく、川の繋がりであったり、海、湖、山だったりとそんな単位の文化圏が形成されていた事に気付きます。池田文化も猪名川によって育まれたと言っても過言ではないと思います。
 時代が進み便宜上、どこかに区切りを作ることは止むを得ない事ですが、それは自然にとっては良い事ではなかったのかもしれません。今思えばですけど。
 池田市史第一巻や旧建設省近畿地方建設局発行の「直轄河川防御対象氾濫区域図」には、猪名川の様子が詳しく書かれています。昔は豊かな自然の恵みを受けて生活していた反面、自然に左右される(悩まされる)事も多かったのだと言う事が歴史を見れば納得できます。
 日本の場合、河川の氾濫区域に住む人口は、アメリカに比べて圧倒的に多く、当然その治水に努め、安定した社会や地域を作ろうとする発想は当然の事です。一概に堤防やダムを悪者にすべきでないという事もあります。日本が近代化し、豊かになって始めて、今のような安定した地域になった事も忘れてはいけない事です。しかし、不必要なものには疑問を感じざるを得ませんけね。豊かになった今だから、先人の知恵を採り入れるべきだと思います。

 前置きが凄く長くなってしましましたが、池田城にとってこの猪名川は、天然の要害ともいうべきものでした。色々な資料を読むと、池田の城の発展は館のようなものを、最初は平地につくり、次第に今の池田城跡公園のあたりに築いたと推定される方もおられますし、五月山の上から降りてきたと推定される方もいます。
 そんな中で、私としては前者の経緯を辿ったのではないかと考える方です。実際、上から降りて来たと考えるには、五月山を数カ所掘っても、それらしき物が出ない事、他の城の形態を見た時、平地に館を築いて有事にはその近隣の高所の防御施設に籠るというのも少なくないからです。
 戦国時代も末期になると、大掛かりな戦いも多くなりますので平地よりは高すぎない高所、今の池田城跡公園のあたりに住むようになったのではないかと思います。ちなみに、池田城の施設に使われていた石は猪名川から採集されたものも多くあります。石垣や建物の基礎の石として多量に使われていました。詳しくは「発掘調査報告書」をご覧下さい。

 城郭(池田城)の観点から見れば猪名川は、それ自体を防御としての使われ方もされたと思いますが、人々の日常の生活にも大きな恵みをもたらしただろうと思います。そんな猪名川は、今も私達に図り知れない利益をもたらしてくれていると思います。これからも大事にしていきたいものです。

マップ(詳細図)はA-2〜B-5


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