見出し:池田城関係の図録
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写真:池田市伊居太神社伊居太神社
The Ikeda shrine.

伊居太神社は、イケダと読むかイコタと読むか難しいところですが、同神社に掲げてある由緒には「イケダ」とカナが打ってあるのでこちらが正式名なのだと思います。詳しくは平成9年発行の池田市史第一巻381項をご参照下さい。ちなみに、地元の古い方は「イコタ」と呼んでおられますが、どうしてでしょうか?
 この神社は、中国からの機織技師「穴織」(あやはおり)・「呉織」(くれはおり)の織姫伝説ゆかりの地でもあります。伊居太神社ではもちろんこの穴織姫を祀ってあり、他にも応神天皇、仁徳天皇が祀られています。
 伊居太神社は、その起源などまだわかっていないところも多いのですが、古くから池田に関わる存在であり、判ってくれば面白い事が出てくるのだろうと思います。

 さて、池田城と伊居太神社の関わりについては、これも浅からずあるようです。この神社の立地は、道筋の監視には都合がいい場所ですし、神社に関わる人は池田氏とも関連しているらしいからです。
 まず、地形ですが、戦国時代頃の地形は今と違って五月山と猪名川の間隔は狭く、猪名川の西岸の道を通って北へ向かうにも、逆に南へ向かうにも道に沿ってクサビのように張り出た五月山を見上げながら通るような状況でした。池田から北へは能勢や亀岡、一庫、篠山などに通じる道がありました。また、木部を経由して細河地区は細河荘という荘園があって古くから開けていたところです。京都への裏ルートとして何度かこの道は歴史上に登場しています。
 それから、昔の集落というのは、特に自衛的な町づくりをしていたようです。特に不穏な戦国時代は、ある程度軍事的な施設も用意してあるだろうと思います。
 事実、今の伊居太神社の境内へ上がる階段の下には、古い町並が残っていますが、この辺りに家老河村惣左衛門の屋敷があったと記録にあります。付近の発掘などはされていませんが、色んな伝承を繋げていくと、池田城の規模というのは、今の城跡公園から西にもかなり関連施設があったようです。推察に過ぎるかもしれませんが、この伊居太神社もやはり軍事的側面を帯びた施設となっていた可能性も高いと思います。
 それに加えて、道の管理と監視というのも、池田氏が中央と結びつけばつく程、重要な仕事になっていったと思います。自分達の集落を守る上でも同じ事が言えるでしょう。

 池田氏と関連する神社としての伊居太神社と素直に考えた場合、前述の伝承を加味すると、益々その核心に近付くような気がします。中世のどの城を訪ねても、その居城者が崇拝した神社は必ずあります。池田氏にもそのような習慣はあったのではないかと思う方が自然だろうと考えています。時には、砦のような施設として、人々や池田氏族の喜怒哀楽を受け入れてくれる拠り所として存在していたのではないでしょうか。出陣の時には、やはり神社に詣で加護を乞う事は習慣的になされていたようですし...。戦に出陣した記録の多い池田氏も伊居太神社とは縁が深かっただろうと思います。

 それから、伊居太神社の縁者の方は池田氏の家臣だったとのことです。神社に戦国時代の記録や遺品が多いのはこのせいもあるのかもしれません。

 池田市域は、このように重要だと思われるものを多く包含していながら、急速に変わろうとしています。せめて発掘だけでもできないだろうかといつも胸を痛めています。ボランティアを募って...。
 ナチスに追われて自殺した哲学者ベルター・ベンヤミンの言う事が正しければ、そこに未来があるのかも知れません。文化財を大切に考えたいものですね。


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